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福島原発事故・マーシャル諸島核実験
復刻版
第五福竜丸のむこう側
マーシャル諸島の被爆者〈増補改訂版〉
台本(文字起こしテキスト)
映像配信ページ
ピックアップ解説

(マーシャル諸島と福島)



スライド制作時の台本をもとに「第五福竜丸のむこう側〜マーシャル諸島の被爆者」〈増補改訂版〉の内容をテキストと写真とで再録しました。
元映像の配信ページ(http://www.eizoudocument.com/0659MarshallSlide.html)
ピックアップ解説(マーシャル諸島と福島)
YouTubeでの配信ページ(https://youtu.be/9WXcTFnxQo0)

00 ビデオのタイトル
00-1
00-2

復刻版
第五福竜丸のむこう側
マーシャル諸島の被爆者
本編40分

1983年制作のスライドをビデオ化したものです。

ナレーションの言い間違えがありますがそのままになっています。
数字の間違えやその後判明したことは字幕で補っています。

01 焼津に帰港した第五福竜丸
01

1954年3月1日、ビキニ環礁での米国水爆実験によって、第五福竜丸をはじめ日本の漁船800隻以上が死の灰をあび、のちに第五福竜丸の久保山愛吉さんがなくなった。ビキニ・マグロ騒動や放射能の雨。原水爆禁止運動の出発点となった。
02 第五福竜丸の被爆者・久保山愛吉さん
02

3月1日は「ビキニ・デー」として記憶されることになった。しかしビキニ環礁のあるマーシャル諸島に島人たちが生きていたこと、その島人たちがどうなったのか、想像力を働かせ視野に入れていこうとする努力はほとんどなかったといえる。
03 被爆したマーシャルの子ども、ネルジェ
03

3・1核実験で被爆したマーシャルの子ども。──「日本は唯一の被爆国」だとよくいわれる。しかしこれほど誤った、そして犯罪的な表現はない。第五福竜丸が被災したとき、同じ死の灰はマーシャルの島々にふりそそいでいた。しかも彼らが受けた被爆は、このとき1回限りのものではない。なんと66発におよぶ原水爆がマーシャルでは爆発している。

※67発
 その後判明したエニウェトック北東の洋上高空での核実験を含めると67回

04 マーシャルの被爆者
04

今なお放射能は人々をむしばみ、最近になって被爆民が広範囲にわたり、急激に増加している事実が明らかになった。
05 メインタイトル
05

(♪〜 マーシャルのうた『大工のうた』はじまる)

第五福竜丸のむこう側
マーシャル諸島の被爆者

06 第1部タイトル
06

T.3・1核実験とマーシャルの人々
07 地図・ミクロネシア
07

(音楽はバックグラウンドに)

西太平洋に位置するミクロネシア。──米国をそこにもってくればすっぽり入ってしまう広大な海域に、2000あまりの島々が散在する。マーシャルの島々は、他のミクロネシアと異なり、そのほとんどが環礁によってなりたっている。

08 空から見た環礁
08

飛行機から見る環礁は、青い海原に緑色の首飾りを浮かべたような姿だ。10個から多いもので100個もの小島がじゅずつなぎにつながり、その内側にはかなり広いラグーン──静かな内海──をたたえている。
09 環礁の島
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09-2

島々は小さく砂地の島で、海抜は1〜2メートル。島で一番高いものといえば、島中に密生するヤシの木である。
島は、ヤシの実をはじめとして、パンの実やタコの実、くだものなどを人々に提供した。
10 漁をする男たち、収穫
10-1
10-2

しかし広大な海に対し島々は小さく、人々の生活は、そのほとんどをラグーンからとれる、豊かな海の幸に依存してきた。
11 早朝の風景
11

1954年3月1日、早朝。ビキニを西にのぞむロンゲラップ環礁では、すでに何人かが起きだし、ある人は魚とりに、またある人は朝食のしたくと、おだやかな一日が始まろうとしていた。

(バックの音楽カットアウト)

12 核実験の赤い火の玉
12

6時45分、西の空に太陽があがる。──閃光、そして爆音。つづいて爆風が島をおそった。ゴザや釜のフタはふきとび、ヤシの木が倒れ、人も何かにつかまっていないと飛ばされるほど強いものだった。

※写真は3月27日のロメオ水爆実験

13 子どもたちが遊んでいる風景
13

150キロはなれたとなりのビキニ環礁で「ブラボー(ばんざい)」と呼ばれる水爆が爆発したのだ。その威力は15メガトンといわれ、広島原爆の1000倍というとてつもない水爆実験であった。

※184キロ
 150キロは両環礁中央を測った距離
 ビキニの爆発地点からロンゲラップ本島だと184キロ

14 米国発表の死の灰降下図
14

放射能を含んだ雲は、米原子力委員会によれば、東にむかって流れていった。
図の「半致死量」と記されたところで四国と同じ広さになる。
15 ジョン・アンジャインさん(元ロンゲラップ村長)
15-1
15-2

4〜5時間たつと、ロンゲラップには死の灰が降り始め、3センチぐらいの厚さにつもった。
当時、村長をつとめていたジョン・アンジャインさん。
(1981年12月 イバイ島でのインタビュー)

〈ジョンさんのマーシャル語の語り〉
「白い粉は、少しはなれると、何も見えなくなるほどに降りしきりました。しかし私たちにはそれが何なのか、まったくわかりませんでした」

16 浜辺の子どもたち
16

「息子のレコジは、裸の身体に粉をいっぱいつけてはじゃぎまわっていました。この粉が死の灰だったのです」

※ジョンさんの息子レコジは当時1歳になったところだった

17 レコジの死
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その粉がいかに危険なものであるか、人々に知るすべはなかった。水がめや釜に入ってもそのまま飲み食いした。
アンジャインさんは、息子のレコジが18年後に、この日のことがもとで死んでいこうとは、夢にも思わなかった。

※ジョンさんの息子レコジは1972年11月、急性骨髄性白血病で亡くなった

18 ガイガーカウンターを持ち上陸してくる米兵
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頭痛、下痢、嘔吐、全身の痛み……子供たちは火のついたように泣きはじめた。
夕方になって、米軍の飛行艇が来たものの、身体の異常を訴える島人をしりめに「水を飲むな、ヤシの実だけにしろ」と言い残してたち去ってしまった。
19 クワジェリンに送られるロンゲラップの人々
19

ロンゲラップとその属島アイリングナエ環礁の82人と4人の胎児は、3日にわたり放置され、その後クワジェリンの米軍基地に運ばれた。
20 ロンゲラップの被爆者
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〈ジョンさんのマーシャル語の語り〉
「クワジェリンに着いたとき、人々はみな皮膚がやけて、やけどのようになっていました。
 しかしクワジェリンにいた米国の医者は、薬もつけてくれず、ただ海へ行って身体を洗えというだけでした」
21 ロンゲラップの被爆者
21

クワジェリンで人々が受けたのは治療ではなかった。4日目にクワジェリンに運ばれ収容されたウトリック環礁住民157人とともに「群1」から「群3」の3つのグループに分類された。

※群1 ロンゲラップ住民
 群2 アイリングナエにいたロンゲラップ住民
 群3 ウトリック住民

22 ロンゲラップの被爆者
22
そして「研究材料」として一人ひとりに番号がつけられ、顔写真がとられ、毎日、血液と尿が採取された。薬はいっさい与えられなかった。
23 ロンゲラップの被爆者
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発表では、ロンゲラップ住民が受けたガンマ線による全身被曝は、51時間で175ラドとなっている。外部照射による致死線量は600ラドといわれており、もしそこに8日間いたなら確実に死に致るほどのガンマ線被曝であった。

※175ラド=1750ミリシーベルト

24 ロンゲラップの被爆者
24
しかも人々は、ガンマ線だけでなく、身体に付着した死の灰によるベータ線の全身照射、水や食物や空気の摂取による内部被曝も受けていた。
25 ロンゲラップ住民の移動地図
25
ロンゲラップ住民が生まれ故郷の島にもどされたのは1957年6月29日、3年4カ月ぶりのことだった。
このときの米原子力委員会の発表は次のようなものだった。
26 ガイガーカウンターで頭を測定しているところ
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「ロンゲラップは人間の居住にはまったく安全である。ただし放射能の活性レベルは、地球上のいかなる居住地域よりも高い。
 これらの島々に人々が住むことを通じて、放射線が人体におよぼすきわめて貴重な生態学的データが得られるであろう」
27 第2部タイトル
27
U.放浪のビキニ、エニウェトックの人々
28 米国旗を受けとるファラロップ島(ウルシ環礁)の酋長(1946年)
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マーシャルをはじめミクロネシアの島々は、太平洋戦争の戦場となった。
米国はこの戦争で、それまでの支配者日本を追い出し、軍政下におき、1947年7月以降は国連信託統治領の施政権者としてミクロネシアにいすわった。
29 実験前のビキニの民家風景
29
米国は戦争終結のわずか1カ月後に、マーシャルで核実験を行なう方針を決めた。
人口密集地からはなれ、人口が少ないので住民の移住が簡単であり、米国が自由に使用できるから、というのだった。
30 ビキニでの最初の核実験
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1946年7月1日、ビキニ環礁における第1回核実験。
これを皮切りにビキニ環礁で23回、エニウェトック環礁で43回、合計66回におよぶ原水爆が炸裂した。
では、それまでビキニ、エニウェトックに住んでいた人たちは、どうなったのだろうか。

※その後判明したエニウェトック北東の洋上高空での核実験を含めると67回
 ビキニ環礁 23回
 エニウェトック環礁   43回
 エニウェトック北東洋上 1回
 合計67回

31 米軍将校が来てビキニからの退去を通告
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1946年2月、米軍将校がビキニを訪れ、「世界戦争を終わらせるために、新型爆弾の実験をやる」と通告、166人の住民は、米軍の上陸用舟艇に乗せられ故郷をはなれた。

※その後判明した人数は167人

32 ビキニ住民の放浪・移動地図
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住民に選択の余地は残されていなかった。まず無人島であったロンゲリック環礁に移住させられたが、ヤシをはじめとする食糧が少なく、餓死寸前の状態に追い込まれ、さらにクワジェリン、そして無人島のキリ島へと放浪の旅が始まった。
33 空から見たキリ島
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ひとつの環礁が無人島であることは、そこが生活にはまったく適していないことを意味した。
キリ島は環礁ではなくひとつの島で、“天然のいけす”ともいえるラグーンがない。
34 キリ島での船荷のつみおろし
34
11月から春にかけての風の季節には、魚とりもできず、しかも食糧などを運ぶ船も接岸できない。
「キリ島とは、どんなところですか?」
ある住民はこうこたえる。
「あれは監獄です」
35 エニウェトック住民の移動地図
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一方、もうひとつの実験場エニウェトック環礁でも、1947年12月、137人の住民がやはり無人島であったウジェラン環礁に強制移住させられた。
36 エニウェトクでの核実験
36
住民たちは帰島を夢見、苦しい生活にたえた。しかし核実験は、生まれ故郷の島々を破壊していった。
1952年にエニウェトックで行なわれた、米国初の水爆実験。
37 核爆発後のクレーター
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水爆をしかけたエルゲラップ島は、一瞬にして地上から消え、そのあとには直径1.6キロ、深さ60メートルのクレーターができた。半径5キロは完全に破壊された、と記録されている。

※写真はルニット島にできたクレーター

38 ビキニの汚染除去作業
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一連の実験が終わって10年たった1968年、ジョンソン大統領は「ビキニ安全宣言」を出し、放射能除去作業ののち、帰島勧告が出された。
しかし除去作業といっても島の一部だけで、表面の土をブルドーザーで削りとりラグーンに捨てるというずさんなものだった。
39 地元紙の記事
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キリ島の旧ビキニ住民のうち、1973年11月に2家族23人、1974年末に97人、計100人あまりが帰島した。
しかし早くも75年には、島々に戻った人々の体内からプルトニウムが発見されたのだ。
40 朝日新聞「ビキニやはり死の島、島民の再移住を準備」1978年3月20日
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ビキニの再閉鎖が決定され、1978年8月30日、引き揚げ船が派遣された。
ビキニ住民は、核実験のときには遠く離れたキリ島にいたので被爆してはいない。しかし、島に返されてわずか2〜3年で残留放射能が人々の身体をむしばんだのだった。
41 アンドリュー・ジャケオ老人(1978年8月31日)
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ビキニの海岸にたたずむアンドリュー・ジャケオ老人。──彼は最後まで移住を拒んだ。「ビキニは私の故郷だ。私の自由、私の幸福だ。殺して浜辺に埋めるがいい。私はビキニから動かない……」
42 最後のボートでビキニを離れる人々
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8月31日の日没少し前、最後の人間と積荷を乗せたボートが沖合の引き揚げ船にむかった。
彼はそれに乗るのをことわり、降りしきる雨をぬぐおうともせず、海を見ていた。
船の汽笛がせきたてるように鳴ったとき、彼は自分のカヌーにのり、ゆっくりこいで島をはなれた。
ビキニ環礁はこの日以降、おそらく永久に閉鎖されることになった。
43 エニウェトックの汚染除去作業
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そのとき(ビキニの再閉鎖が決まったとき)、もうひとつの実験場エニウェトックでは、住民の帰島がはじまっていた。
1977年5月から放射能除去作業がはじまり、翌6月からは旧住民50人が交替で移り住み、作業を見まもっていた。
44 2つのクレーター(カクタス、ラクロス)
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ここでは汚染土の捨て場として、核実験によってできた巨大なクレーターがあてられた。そこに汚染土がコンクリートとともにまぜかためられ、入れられた。
45 汚染土でできたルニット島のドーム
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こうしてできたルニット島の巨大なドーム。──当初の計画では、クレーターの底にはコンクリートの内ばりをすることになっていたが、予算が3分の1にけずられたので、行なわれなかった。しかも実際に除去された汚染土も、ほんの一部にすぎなかった。
46 地元紙の記事
46
1980年4月、放射能除去作業は終わった。エニウェトックの住民は故郷に戻り、それを祝った。
しかし放射能が消え去ったわけではない。住民の命の安全をいったい誰が保障できるというのだ。
47 第3部タイトル
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V.増えつづける被爆者〜マーシャルをおおう死の灰

ここでもとにもどって、ロンゲラップ住民をはじめ、マーシャル被爆民の現状に目をむけてみよう。
1954年の3・1実験で被爆し、米軍に連れ出されたウトリック住民157人は3カ月後に、ロンゲラップの82人は3年4カ月後の1957年6月に帰島が許された。

48 ネルソン・アンジャインさん 1928(昭和3)年生まれ(1981年当時53歳)
48

ロンゲラップ出身のネルソン・アンジャインさん。彼は1928年生まれの54歳(1981年当時53歳)。日本支配の時代に覚えた日本語で、核被害の現状を語ってくれた。
(1981年12月 イバイ島でのインタビュー)

〈ネルソン・アンジャインさんの語り〉
「僕らは島にいるときには、靴をはかないでしょ。みんなかゆいんですよ。こういうふうにやって、こすると皮がはがれて、それで島から離れたらもうよくなったんですけど……。それから背中ですね、痛くなるんです。それから目が弱くなってるんです。
昔からはこういうふうな病気はなかった。バクダンのあとは、こんなになっているんです、私たち」

49 20人目の死者となったナポータリ・オエミさんの埋葬式(1974年8月6日)
49

「本当のことは、私たちはいつでも心配しているんですよ。命はどうなるか、僕らの子供の命はどうなるか?」

──亡くなった人も多いのですか?

「多いです。半分。灰をかぶった人が亡くなっちゃった。白血病とかね」

50 名簿を手にするジョン・アンジャインさん
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3・1被爆当時、村長をつとめていたジョン・アンジャインさん。
手にする名簿には、名前とともに病状が記されている。彼の記録では、3・1当時島にいた86人中22人が死亡、甲状腺切除は34人におよぶ。
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米国の調査船、検診のようす
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※米国は毎年ロンゲラップに医療調査船を送り、被爆者の検診(調査)を行っている
※被爆者に何が起きているかを調べるのが目的で、診療・治療は行わない

〈ネルソン・アンジャインさんの語り〉
「米国人とはもう話せないんです。僕らがちょっと何かいったら『おー、人間はそうだ。おまえたちは人間だ。必ず病気になる』と。
 しかし、おかしい病気が出てきているよ。
 それから子供が生まれたらね、口がない。頭がない。1人目だ、これで。それから、ほかの女が子供を生んだらね、くだものと同じような子供が出るんですよ。
 僕の考えとしては、米国の医者がくるのは、人を調べてどれくらい生きていくか…。人間がどうなるか、知りたいためにロンゲラップの人にやったでしょうと私は考えているんですよ」

52 子どもたち
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被爆による晩発性被害に最初にとらえられたのは、子供たちだった。
ロンゲラップでは1963年ごろから甲状腺障害が一気に広がった。甲状腺ガン、子宮ガン、乳ガン、胃ガン、白血病……、深刻な「原爆症」が出てきたのだった。

※ロンゲラップ
 1963年 3.1実験から9年後

53 英字紙
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若い女性のあいだでは、流産・死産があたり前のこととなった。
米国政府のデータでも、最初の4年間に妊娠女性32人のうち13人──実に41%が流産・死産したことが明らかにされている。
54 ウトリック環礁で
54

一方、3・1被爆のときには、自覚症状をほとんど訴えていなかったウトリックの人々のあいだでも、1975年をさかいにロンゲラップと同じような被害が、同じ勢いであらわれはじめた。

※ウトリック
 1975年 3.1実験から21年後

55 読売新聞「全員に甲状センの障害」1982年4月24日
55
〈♪〜〉
しかし問題はこれで終わらなかった。最近になって、これまで述べた深刻な実情も、核被害のほんの入り口でしかないことが明らかになってきたのだ。
今まで被爆者はいないとされ、追跡調査さえされなかった島々からも、放射線障害を訴えるものが出てきた。
56 ウォッジェ環礁で
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そのひとつ、ウォッジェ環礁。ここに住む30歳の女性は1981年3月、こう証言した。
「私は今、ウォッジェの人はみな、爆弾から毒を受けたと信じています。人々は、たえず、背中が痛い、胸が痛い、頭痛がする、お腹が痛いと訴えています。そして多くの人が、高血圧になっています。
 1979年に私は赤ん坊を生みましたが、死産でした。この赤ん坊は、目も肛門もなく、みんなは私に、爆弾のためだと話しました」
(グレン・アルカレイによるインタビュー、1981年3月〜4月に現地調査、1981年8月公開の報告より)
57 ウォッジェ環礁の位置図
57
ウォッジェ環礁は、ビキニからは550キロも離れ、米国もその調査地図からはずしているような島であった。しかし66回におよぶ核実験は、確実にマーシャル全域、少なくとも北部全域を汚染していた。
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追記
ウォッジェがあびた放射線量と飯舘村
57-01

その後公開された文書によると、ウォッジェ環礁があびた放射線は、ウトリックより1ケタ低い2.5ラド=25ミリシーベルトであった。

福島原発事故で飯舘村があびた放射線は、避難が完了するまでの107日間で32.6ミリシーベルト(中央値)

村民一人ひとりの被曝線量でみると、平均すると7.0ミリシーベルト、最大の人が23.5ミリシーベルトであった。

58 足がまがって生まれた子ども
58
しかも最近になって、遺伝障害と思える障害児の出産が、急激に増加している。
59 手のひらがない子ども
59

米国は、ロンゲラップ住民は175ラド、ウトリック住民は14ラドの放射線をうけたとしている。しかし、結局のところその違いは、9年で症状が出るか、21年で出るかという時間的な差でしかなく、時間がたてば同じ結果になるのだ。

※ロンゲラップ 175ラド=1750ミリシーベルト
 ⇒9年後 甲状腺切除やガンの急増
 ウトリック  14ラド=140ミリシーベルト
 ⇒21年後 甲状腺切除やガンの急増

60 読売新聞「ビキニ“放浪の再移住”」1978年9月2日
60
しかも被爆していなかったビキニ住民が、帰島によって受けた被爆は、さらに低いレベルだった。にもかかわらず、2〜3年で影響があらわれたことは、放射線の影響に安全値はないことを明らかにしている。
61 原発労働者
61

「原子力発電所の労働者は年間5000ミリレムまで、周辺住民は500ミリレムまではよし」とする許容基準が、実に根拠のない数字であることは明白である。
しかも人口の多い日本で、20年後にガンや白血病など、さまざまな形で表われても、その原因を判定・立証することは困難だ。

※1983年当時の規制値
 原発労働者 年5000ミリレム=50ミリシーベルト
 一般公衆  年500ミリレム=5ミリシーベルト→現在は年1ミリシーベルト

61
追記
01
ロンゲラップ住民 自ら集団移住
61-01
その後ロンゲラップ住民は、消えることのない放射能と増大する核被害、特に子どもたちに病気が広がるにおよんで、自ら故郷を捨て、島を離れることを決めた。
1985年5月、住民325人は、クワジェリン環礁にある無人島メジャト島に集団移住した。
61
追記
02
核被害補償裁判所(NCT)による健康被害認定者の分布(1993年末時点)地図
61-02-1
61-02-2

1990年代に入って
核実験による健康被害は北部だけではなく
マーシャル諸島全域で出ていることが明らかになった。

1993年末
マーシャルの核補償裁判所(NCT)は
572人の健康被害を核実験によると認定し補償金の支給を始めた。

その受給者の分布図が以下である。

〈地図〉
※1987〜91年に申請を受けつけ、審査後1993年末に認定された人数
※核実験時に生存していた者で、白血病、甲状腺ガン、乳がん、喉頭ガンなど25種の疾病
※その後、核実験以後に生まれた者にも申請資格が与えられ、また疾病も36種に増えた
※2006年末の時点では1999人が認定されている
(島田興生『還らざる楽園』をもとに作成)

健康被害がマーシャル諸島全域で出ていることがわかる。

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追記
03
キャッスル作戦(3.1実験を含む6回の核実験)による各地の放射線量(空間線量の積算値)地図
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61-03-2

それを裏づけるように
1994年に機密解除された文書のなかには
3.1核実験を含む6回の実験(キャッスル作戦)が
マーシャル諸島全域に放射線をあびせていたことを示す文書があった。

それを地図にしたのが以下である。

〈地図〉
※1954年3月1日〜5月14日に行われた6回の実験(キャッスル作戦)による各地の積算線量(空間線量の積算値)を地図に起こしたもの
※当時の単位ラド(レム)をシーベルトに換算した
※当時発表されたロンゲラップの1750ミリSv、ウトリックの140ミリSvの被曝線量は、避難までの空間線量の積算値
※数値の出所:『CASTLE BRAVO: Fifty Years of Legend and Lore』2013年1月(そのもとは『Radioactive Debris from Operation CASTLE』1955年1月18日)

61
追記
04
2つの地図を重ねた地図
61-04

〈地図〉
2つの地図を重ねると

初期被曝が数ミリシーベルトの場所でも
40年後には健康被害が出ていることがわかる

62 第4部タイトル
62

W.クワジェリンとイバイ島〜米領化のもくろみ自由連合

米国が国連の信託統治下で何をやってきたのか、典型的にあらわれているのがマーシャル諸島であろう。クワジェリン環礁は、今も全域が閉鎖地区とされ、ミサイル実験が続けられている。

63 上空から見たイバイ島
63
本来の住民は強制退去させられ、同じ環礁にあるこのイバイ島におしこめられた。
64 イバイ島のようす
64
一周するのに20分とかからないイバイ島に、8000人が住んでいる。しかしクワジェリン環礁で住民の居住が許されているのはこの島だけで、故郷の島にもどることは許されていない。
65 クワジェリン住民の「帰島作戦」米軍基地に奪われた故郷に住み込む(1982年6月〜10月)
65-1
65-2
こうした米国の暴挙に、島々の返還を求め、ミサイル実験とこれを恒久化する自由連合協定に反対して、クワジェリン住民は1982年6月19日より座り込みに入った。
66 クワジェリン住民の「帰島作戦」
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立ち入りの禁止された故郷の島々にもどり、テントをはっての抗議行動は、4カ月にわたった。しかし座り込みのあいだも、米国はようしゃなくミサイル実験を行なった。
67 クワジェリンの危険区域を示す掲示版
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マーシャル諸島は、核弾頭から、それを運ぶミサイルまで、米国の核兵器開発の踏み台とされてきた。それは国連から「戦略区域」──すなわち米国一国が自由に軍事利用できるとのお墨付きを得ていたからだ。
68 ミクロネシアの米国軍事利用地図
68
国際世論の批判と住民の独立要求が高まるなかで、米国は信託統治を一応終え、しかしその後もミクロネシアを支配する方法を考えた。それが「自由連合協定」である。
69 ミクロネシアの将来の政治地位地図
69
これまでの信託統治協定にかわるものとして、米国とマーシャル諸島、ベラウ(パラオ)、ミクロネシア連邦とのあいだで結ばれようとしている自由連合協定は、大ざっぱにいえば軍事・安全保障上の権限は完全に米国が握り、ミクロネシアには内政上の権限と財政援助を与えるというものである。
70 ミサイル実験
70
クワジェリン住民がこの協定に反対して座り込みに入ったのも、この協定が結ばれれば、クワジェリン環礁全域にわたるミサイル実験場は、少なくとも50年間、継続使用され、米国はマーシャルにおいて独占的軍事権を永久に握ることになるからだ。
71 読売新聞「元ビキニ島民“4億ドル訴訟”」1981年3月17日
71
自由連合協定では、核実験による被害補償についても記されている。米国が6600万ドルを支払うほか、食糧・物資の援助などがあげられている。
その金額の低さもさることながら、米国はこれによって核被害の責任は一切問われることはなくなり、賠償を要求するいかなる裁判も拒否できる、となっている。
72 ベラウ(パラオ)の米軍基地計画図
72
一方、ベラウ(パラオ)においても、マラカル港やアイライ飛行場などを基地とし、島の4分の1を演習場とするなど、ベラウの米軍基地化が自由連合協定に盛りこまれている。
73 非核憲法を支持する人々の集会風景(1980年7月)
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ベラウでは「非核憲法」が制定されたが、もしこの自由連合協定が結ばれたなら、非核憲法は実質的にはつぶれることになる。
74 第5部タイトル
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X.日本とミクロネシア〜日本支配と戦争、そして今
75 グアム住民から見たマゼラン
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世界一周に旅立ったマゼランがグアム島を「発見」したといわれる。
しかし、西洋人が来る以前からそこに住んでいた住民からみるとき、こんな侮辱はない。
76 ドイツ統治下のポナペの写真
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15世紀のいわゆる「発見の時代」以来、ミクロネシアをはじめ太平洋の島々は大国の支配下におかれてきた。
スペイン、ドイツ、日本、米国と支配者の顔は変わっていったが、ミクロネシア民衆にとっては、外国の思惑のままに利用され、踏みにじられた400年間であった。
77 日本統治下のヤルート
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日本は1914年、第一次大戦に乗じてミクロネシアの島々をまたたくまに占領、ドイツを追い出し、太平洋戦争で敗北するまでの30年間、植民地支配を続けた。
78 日本統治下の公学校
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ミクロネシア人むけには「公学校」というものがつくられ、日本語教育からはじまり、徹底した皇民化教育がおしつけられた。
79 公学校での日の丸掲揚と宮城遙拝
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公学校では毎朝の朝礼で「日の丸」が掲揚され、「君が代」、さらには「私たちは天皇陛下の赤子です……」と暗しょうさせられた。
80 太平洋戦争
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日本は南方進出の拠点として、あるいはハワイ攻撃の前進基地として、各地に軍事基地を築いていったため、ミクロネシア全域を戦禍にまきこんだ。
81 ベラウ(パラオ)の子どもたちが扮した日本統治時代(1981年1月31日「ベラウ(パラオ)共和国」発足の祝賀パレードで)
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ネルソン・アンジャインさんも日本時代に生まれ、戦争中は天皇陛下のために命はおしくないと信じていたひとりだ。しかし、マーシャル住民は苦しい生活を送らねばならなかった。
82 ヤルート環礁の位置図
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〈ネルソン・アンジャインさんの語り〉
「マーシャルの方はひどかった。ジャボール(ヤルート環礁)ですね。島民はコプラなんか、パンの実、タコの実、食べられない。みんな兵隊の方ばっかり。もしも一本のコプラを食べたらね、この指がなくなる」
83 ミリ(ミレ)環礁の位置図
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「それからミレの方ですね。マーシャル人と(日本の)兵隊が戦争やってね、みんなマーシャルの人が殺されたんです。マーシャル人と日本の兵隊」

──それはどんなふうにして起こったんですか?

「問題は食べ物の問題ですね。あんまり食べ物がなくて、島民は食べちゃいけないって。ただ兵隊に運んできて、食べちゃいけないというような話があったんです。
(それでマーシャルの人間が集まって、日本の兵隊に)戦争を起こそうって。
死んでも、必ず死にますからね、食べられなきゃ死にますから、戦争を起こしましょう。
で、みんな殺された。日本の兵隊に。一人のこらず」

84 ミレ環礁で
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ミレ環礁には、5000人以上の日本兵が進出した。しかし補給路がとだえ、食糧不足におちいると、日本軍は約700人の住民を強制労働にかりたて、彼らの食糧を奪い、抗議する酋長を殺した。
85 ミレ環礁セルボン(チェルボン)島、ここに殺された人たちが眠るという
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こうした迫害のなかで、ミレ環礁セルボン島の住民が、ともに圧迫されていた朝鮮人軍属と連合して反乱を起こした。
しかし200人とも300人ともいわれる住民は、日本軍によって全員が殺された。
戦後、マーシャル人によって集められた遺骨がここにねむる。
86 太平洋戦争
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──コプラやパンの実とかタコの実とか、食べちゃいけないというと、どうするんですか?

〈ネルソン・アンジャインさんの語り〉
「兵隊の方に運んでください。食べられない」

──何を食べていたんですか?

「たまにはパンの実ね、どろぼうしてきて食べるんですよ。どろぼうしなきゃ生きていけない。自分のものをどろぼうしないと(笑い)」

87 日米の戦争で廃墟となったサイパンの街(1944年7月)
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彼はつづけて「昔は昔、今は今だ。今は何でもない」と語った。しかし私たちにとって、これを過去のこととしてすますことはできないだろう。
「日本軍が玉砕した」といわれる多くの島々。しかし死んだのは、なにも日本人だけではない。
しかもそれは、彼らとはまったく無縁のはずの日本と米国の戦争によってもたらされた。
88 日本の核廃棄物太平洋投棄計画に抗議する人々(1980年8月9日、グアム)
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敗退した日本が、今再びミクロネシアに登場している。そのひとつ、核廃棄物の太平洋投棄計画。
「安全ならなぜ日本国内に捨てないのか」と太平洋から強い反対の声があがっている。
89 米国がサンフランシスコ沖に投棄した核廃棄物のドラム缶
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今さら計画の犯罪性を説明する必要はないと思うが、重要なのは、太平洋民衆にとっては日本の再侵略として受けとめられていることだ。
90 新聞記事・ビキニの核廃棄物貯蔵所計画や使用済み核燃料の貯蔵基地計画
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しかも日本は、核実験で汚染されたマーシャルの島を使っての核廃棄物貯蔵所や、パルミラ島などを候補地とする使用済み核燃料貯蔵所などの建設を計画している。
91 読売新聞「次回のリムパック参加部隊を大幅増加」1982年5月10日
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一方、日本の軍事的進出の動きも活発だ。日本は1980年より、環太平洋5カ国による統合演習──リムパック軍事演習に参加している。
92 リムパックでハワイの射爆場にたてこもっての抗議を伝える新聞
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82年3月から4月にかけてのリムパック82では、ハリー・ミッチェルさんが射爆場にたてこもるなど、ハワイ先住民が強く反対した。
しかし自衛隊はこれを無視、カホラブェ島を射爆場にして実施した。
93 ベラウの人々
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新生「ベラウ(パラオ)共和国」発足・就任式で(1981年1月31日)
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ベラウ(パラオ)の反核ポスター展(1984年3月)
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〈♪〜 ベラウ(パラオ)のアルフォンソ・ケベコールさん作・演奏『戦争の激しかったころ』〉

これまで長い植民地支配のなかで踏みにじられてきた太平洋の人々は今、声をあげ、たちあがりはじめた。
太平洋各地からまきおこる海洋投棄反対の声、マーシャル諸島クワジェリンの座り込み、ベラウの人々が米国の圧力をはねかえしてつくった非核憲法、などなど……。

94 北マリアナの子どもたち
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マーシャル諸島の人々
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クワジェリン住民の「帰島作戦」のとき
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もはや「日本は唯一の被爆国」といったごうまんないいかたは許されない。日本も太平洋に浮かぶ島であることを思い出そう。
太平洋の人々とともに、核のない太平洋を創り出そうではありませんか。
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追記
01
ベラウ(パラオ)非核憲法その後
95-01

◎ベラウ(パラオ)非核憲法

1992年11月
非核条項を自由連合協定には適用しない
との憲法修正案が住民投票にかけられ
可決された。

これをうけ自由連合協定は
1993年11月に行われた8度目の住民投票で
可決・承認された。

しかし協定に書かれた米軍基地化の計画は
実行されず現在にいたっている。

〈♪〜 ケベコールさんのハーモニカ演奏 ベラウ(パラオ)の歌で『うなぎのうた』〉

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追記
02
マーシャル諸島の自由連合協定その後
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95-02-2

◎マーシャル諸島の自由連合協定

1983年9月に住民投票が行われ
クワジェリンにおいては反対が70%だったが
マーシャル諸島全体では58%が賛成し
可決・承認された。

クワジェリンのミサイル実験場は
現在も継続使用されている。

自由連合協定の成立によって
核実験被害への補償は完了したことにされた。

信託基金への1億5000万ドルの拠出をもって
補償は打ち切られ
米国政府を訴えていた裁判も却下された。

核補償裁判所(NCT)は被害を認定したが
米国が追加支出に応じないため
認定額どおりに支払われたわけではない。
このため米国への補償要求はつづき
新たな訴訟も起こっている。

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追記
03
日本の核廃棄物太平洋投棄計画その後
95-03

◎日本の核廃棄物太平洋投棄計画

太平洋全域からの反対の声に
実施できない状況に追いこまれ
計画は“凍結”となった。

最終的には1993年11月
ロンドン条約改正に日本はついに賛成し
核廃棄物海洋投棄の全面放棄を明確にした。

ビキニなどへの核廃棄物貯蔵計画は
日米により何度も浮上したが
すべて中止に追いこまれた。

96 元スライドのクレジット
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追記
話しを聞かせていただいた二人
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話しを聞かせていただいた二人 =声の出演=

ジョン・アンジャイン John Anjain さん
  2004年7月20日 死去(81歳)胃ガン
ネルソン・アンジャイン Nelson Anjain さん
  2006年12月28日 死去(78歳)

97 ビデオ制作のクレジット
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復刻版
第五福竜丸のむこう側
マーシャル諸島の被爆者
本編38分

1983年3月1日 “反核太平洋の日” 3・1東京集会で上映したスライドにその後判明したことを字幕で補いビデオ化したものです。

元スライド制作:自主講座/反公害輸出通報センター
1983年3月1日 完成版上映(1982年10月 試作版上映)

復刻版ビデオ制作:映像ドキュメント.com
増補改訂版2020年4月1日(初版2017年3月1日)

編集・構成:荒川俊児





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掲載2020年10月2日