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【発言録】
映画『靖国』への政治圧力・上映中止に抗議する
緊急記者会見
2008年4月10日、参議院議員会館第2・3会議室 |
映画『靖国』をめぐり、上映の場すら奪われようとしていることに危機感を持ったジャーナリスト・映画監督・メディア関係者が4月10日、緊急の記者会見を行った。以下、出席者の発言を再録します。
●録音音声↓
ダウンロードまたは別ウィンドウでの再生は⇒【音声】映画『靖国』緊急記者会見(MP3ファイル、48kbps、34.3MB)
記者会見の映像は⇒4月9日緊急記者会見録画中継
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李纓(リ・イン)監督
映画『靖国 YASUKUNI』監督
⇒映画『靖国
YASUKUNI』公式ページ(http://www.yasukuni-movie.com)
Li Ying。1963年生まれ。1984年、中国中央テレビ局(CCTV)のディレクターとして、ドキュメンタリー制作に携わる。1989年、来日。1993年、プロデューサー張雲暉とともに、映画テレビ番組製作プロダクション「龍影」を設立。
1999年、映画デビュー作である「2H」では、ベルリン映画祭最優秀アジア賞、香港国際映画祭国際批評家連盟賞を受賞。以来、劇映画「飛呀飛(フェイヤ
フェイ)」(01年)、記録映画「味」(03年/NHK/龍影)、劇/記録映画「モナリザ」(07年/NHK/中国映画チャンネル/龍影)と作品を発表。その他、日本のテレビ番組を製作。
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皆さんこんにちは。私は今回の事件について、いくつかのおかしいと思っているところを、ちょっと話したいと思うんです。
まず私は、もちろん日本映画監督協会の会員であるし、長いあいだ、ずっと日本で生活して、仕事して、映画をつくってきました。『靖国
YASUKUNI』は、私の5本目の映画です。予定のとおりに4月12日に公開するべきところを中止せざるをえなかったことは、私にとっては非常に意外なことです。
というのは、映画館を決めたのは去年の8月、9月以来なんですけど、半年くらいかかって決めた上映が、3月になってどんどんやめてしまうことは、不思議と思っています。
私は3月の上旬に、各映画館に挨拶に行っていたんです。この映画をとりあげていただいてありがとうと。非常にデリケートなテーマなので、こういう上映は必ずいろんな問題が出てくるから、街宣車の問題とか右翼の問題とか、いろんな反応も含めて、対策も含めて会議をしていたわけです。そのときは、各劇場の方も非常に積極的に、いろんな形で対応していこうと、一緒にがんばりましょうと、そういう約束があったんです。
「反日映画」と言われるのも去年の12月以来のことなので、3月までのあいだにも、いろいろ抗議があったわけです。だから、街宣車とかいやがらせとか、そういうことを一切想像してない、考えていないとはいえないわけです。
3月12日の国会議員のいわゆる「国勢調査試写会」のあとに、どんどん劇場側が考え方を変えてしまうことは、発表されている理由としてはいやがらせとか自粛の問題ですけれど、私にとってはまだまだ不思議だと思うわけです。劇場側がどのくらいの、どのような圧力をかけられたのか、私には実際のことはわかりませんが、やっぱり理解しがたいと思います。特に3月31日になって全部の映画館がやめてしまう。それが非常にびっくりしたんです。
このあいだ、ひとつ情報が入ってきたのは、国会議員の有村(治子)さんが、3月27日に参議院の内閣委員会で文化庁の文化部の部長を呼び出して、いろいろ質問をしたわけですけども、そのなかで日本の文化政策も含めて、私の思想性も含めて、審査委員たちの思想性も含めて、いろいろ問われています。
私にとって非常に意外だったことは、いわゆる出演者に有村さんが直接連絡を入れた、確認していた、刈谷さん(出演している刀匠)のことはこの映画から削除してほしいと、そこまで明言されている。私はそれを見て非常に驚いた。
考えてみると、それは27日のことですが、そのあとの4日間のあいだに全部の映画館がやめてしまう。そのあいだに何が関係あるのか、私はわかりません。一連の関係は一連の事実として、そういうことが存在している。
私にとっては、こういう作品の出演者に対して、一国会議員が直接連絡を入れること自体がそれでいいのか、私はそこはたいへんな疑問を持っているんです。彼女が言っているのは、調査しました。もし本当の調査ならば、こちらにも調査していただきたいんですね。
というのは、私は、刈谷さんに長いあいだ撮影も含めて、何回も何回もコミュニケーションをとってきました。撮影、編集の終わったあと、去年の4月に、ビデオを持って刈谷さん老夫婦二人を訪ねて見せに行きました。
そのとき二人は初めて、こういう形のこういう映画になることがわかったわけですが、奥さまの方がいろいろと不安がありました。奥さまは、刈谷さんの世界、刈谷さんの仕事場にそれまで入ったことがなかったんですね。実際に刈谷さんがインタビューに答えていただいた部分を聞いて、奥さまが驚いたのは、試し斬りの話です。そのとき奥さまは「あんたこれ言っていいの、これ人殺しじゃないの、これ」と言っていたわけで、非常に驚いたわけです。そういう内容と、あとは複雑に靖国現象とつながっているから、そういうことも含めて奥さまは非常に心配しました。
そのうえで、われわれは話し合って、私はなぜこの作品をつくるのか、こういう形に構成している、この作品の意味、私が考えている靖国問題、歴史問題、戦争問題、時代の流れのなかにどういうふうに“靖国刀”を見ていくか。それをすべて、いろいろ話をして、奥さまも説得しました。
そのときのわれわれの目的は、この映画をまずは映画際に出したいということがあって、日本の劇場がまだ決まっていないので、まずは映画祭で上映したいということで、それは了承をもらいました。そのうえで、われわれはこの作品を映画祭に持っていった。釜山(プサン)、アメリカのサンダンス映画祭、ベルリン映画祭で上映しました。
ベルリン映画祭が終わったあとに、2月のことですけれど、ベルリンから戻って刈谷さんを訪ねて行きました。映画祭の報告をいろいろしまして、このとき初めて奥さまから、この映画は「反日映画」だと、そういう言葉が出てきました。関係者からなんらかの連絡が入って、神社側は怒っている映画だよ、刀匠会も喜ばない映画だよと、いろんなそういう電話を受けて、非常に動揺していた、非常に不安を持っていました。
そのうえで、私はもう一度また老夫婦とコミュニケーションして、いろいろ具体的な問題、この作品についていろいろ話をしました。その話をしたうえで、奥さまは、「じゃあ、これからどこでも上映してください、この映画。がんばってください」と言われました。
そのときに私は、4月にむけての上映用のチラシを持っていきました。そのなかにはっきり刈谷さんはキャストとして登場している。刈谷さんの写真も入っていました。刈谷さんはいろいろじっくりと読んで、見て、喜んでくれました。最後は「上映がんばってください」と言われました。それが2月のことです。
それでまた3月の上旬に、4月の公開用のパンフレットにぜひ刈谷さんの言葉、映画へのメッセージ、感想、コメントをいただきたいとたのみました。それで刈谷さんから4つの文字をいただきました。「誠心誠意」という言葉。そのときに私ははっきり言いました。これから上映します、パンフレット用の言葉です。そしは刈谷さんから「誠心誠意」という4つの文字をいただきました。
だから一連の上映中止の騒ぎがあったとしても、まさか刈谷さんから自分の部分を削除してほしいと、そう言われること自体が私は信じられません。いまだに信じたくないです。直接まだ刈谷さんからこういう連絡は入っていません。しかし国会議員は直接そこで明言している。自分が連絡を入れた、自分で確認しました、刈谷さんから直接聞いた、「私の部分を映画から削除してほしい」と言っている。
これはいったいどういうことがあったのだろうかと、私は非常に不思議です。国会議員からどういう話が彼に対してあったのだろうか。なぜ、そこまで変心させたのか。私は、いまだに非常にわからなくて、刈谷さん老夫婦のことを非常に心配しているところなんです。
すでにそこまで公開され、明言されているし、国会議員の言葉は社会的な影響力を持っていますから、いろいろなメディアの反応も出てくるだろう。私がさらに話をすると、老夫婦にとっても静かな生活ができなくなってしまうと思うんです。そこはまたもうちょっと、これから確認したいなとは思うんですが…。
大切なのは、国会議員、政治家の私の『靖国』という映画に対しての介入の仕方、そこまでに出演者を変心させること、どのように圧力をかけたのか私にはわかりませんが、そこまでやっていいものなのか、それが私は非常に理解できないところです。
やはりこの作品が成立できなくなるように働きかけている。そういう意味しか受けとれないと思うんです。もし作品として成立できなくなってしまうと、もちろん上映もできません。いまはたくさんの応援してくれる声が出てきたとしても、いろんな劇場がやろうとしてるとしても、最終的にはもし刈谷さんのそこまでの要求がそのまま進行すると、この映画が成立できなくなる。上映もできなくなってしまう。
だからこれが彼女(有村議員)の狙いなのか、私にはわかりません。ただ実際にはそういうことを起こしている。そのこと自体を私はいま、たいへん懸念しているところです。
私がもうちょっと話したいのは、私は国際化の流れのなかで日本にやってきました。私自身がここでつくっている映画は、日中合作の映画でもあるし、日本の力と中国の力と韓国の力もあわせてつくった作品です。これこそ国際化時代のひとつの成果じゃないかと思うのです。
日本はずっと文化立国を目指しています。そういう国策が立っています。文化立国というのは、多元文化が要求されていると思うんです。だからわれわれみたいな外国人が東京で暮らし、生活して、これ自身が多元文化のひとつの証明だと思います。だからこういう政治家の言動は、多元文化の国策に反するものではないかと思います。また、日本の国際的なイメージにとっても、マイナスになるものではないかと思うのです。
幸いなのは、たくさんの応援していただく声が出ているので、そこには大変勇気づけていただいています。そういう声こそが、靖国問題を超えて、本当に世界に通用する本当のプライドと本当の誇りを持つ文化的な大国につながる道だと確信しています。
本当に今日も皆さん、応援してくれる方に集まっていただいてありがとうございます。
実は私は、このあいだの日曜日に、この映画についてサンデープロジェクトでやりました。そこでは、その映画会社(アルゴ・ピクチャーズ)の岡田(裕)社長に出てもらって、李さんは中国に行っていて出られなかったので、岡田社長に出てもらいました。
はっきりさせたことは、稲田朋美さんたちは、文化庁、あるいは映画会社に対して事前に試写を求めたことはないと発表しています。しかし、それはまったくのウソである。
はっきりと岡田社長は言っていますが、文化庁からは本当はDVDがほしいと言ってきた。で、特定のある一部の政治家たちがそれを見たいと言っている。特定とは何か、稲田朋美さんの名前で、伝統と創造の会だということで、つまり彼女は明らかに見せろと言っている。これはウソだということがわかった。
それからもうひとつ、実はこの『靖国』がけしからんと言っている街宣車の右翼は、誰も見ていない。見ないで、週刊新潮の記事で、ただのっかっているだけだと。
で、さらにおもしろいのは、右翼の連中がどっかから手に入れて、この映画を見たそうです。これ別に反日じゃないよと、街宣車をかけた右翼に、右翼の連中が抗議をして、おまえら間違ってるぞ、という動きが起きている。本当ですよ。
それからもうひとつ、ぜひ言いたいのは、ここにある(呼びかけ文)のは映画館が悪いとなってますが、これは違う。つまり、映画館の館主、現場の館主と配給会社は話し合いができてる。館主はみんなオーケーなんですよ。彼らがなぜ中止せざるをえなかったのかというのは、その映画館の上の会社、さらにもっと上の会社。名前を言ってくれるなっていうから言いませんけど、どっちの名前も知っていますけど、その上の会社の役員たちが、こういうことをやると波風立つからよせと。
だからこれなんか私は少し違うと思うのは、映画館はもっと勇気を持てと言っているんだけど、映画館はやろうとした。ところが、上の会社、さらに上の会社、言えばみんな知っている会社なんですよ。そこが、その役員たちがよせと言ってきて、やむをえず上映中止せざるをえなかった。こういう現実があります。だから、映画館を責めるのは間違いで、まさに日本の構造的なところを責めていかなきゃいけないということを申しあげたい。
で、私自身の考えでいえば、これはまったく反日映画ではない。繰り返し言いますけど、この映画の特徴は、普通テレビで8月15日の靖国を撮りますが、ほとんどが“隠し撮り”ですよ。斜めで撮ったり、後ろから撮ったり。これは全部正面から撮っている。ということは、ここで演技してる、というと怒られますね、いろんなことをやっている人たちは、撮られていることを承知でやっているわけです。“隠し撮り”は一発もない。これはすごい。正面から全部撮っている。
それからもうひとつは、ナレーションが一切ない。ナレーションというのは、テレビなんかで安直に使いますけど、これは一種の決めつけですよ。だけども、この決めつけ的ナレーションは一切なくて、そのときの、その現場の声しか入っていない。そういう意味じゃね、“偏向”なんてまったくない。靖国神社で行われていることをそのまま撮ったと。10年間。これを“偏向”とかね、あるいは“反日”とか言うのは、大きな間違い。とんでもない間違いだと思う。以上。
今日はたくさんの人たちが、それぞれの視点から語られると思いますので、まず僕もこの映画を見た感想から最初に述べさせていただきます。
この映画を見た感想はですね、とにかくとてもいい上質なドキュメンタリーだということですね。表現作品、ドキュメンタリーとして、非常に上質な作品に仕上がっている。
これは李監督をはじめスタッフの方々がですね、10年間かけて靖国に通い続けながら、靖国というものを通して、日本人の、あるいは日本という国の精神構造、あるいは文化的な土壌、思想的な源というものを考えていこう、というふうにつくられたものですね。ですからそういう意味では、監督の意図が非常に明確にあらわれた、上質なドキュメンタリーだと思います。
こういうドキュメンタリーが出てきたということは、制作者が中国人であるとか、日本人であるとか、そういうことと関係なしにですね、われわれ自身が靖国というものを通してこの日本をどう考えるのか、ということの非常に貴重な問題提起となった、そういう作品だということをまず最初に申しあげておきます。
ジャーナリストとしてこの現象を見たときに、これは森達也さんも言われていますが、表現の自由ということを持ちだすのもはばかられるような、非常にお粗末な話だと思うんです。
この映画を見てもいない人たちが、一部の週刊誌に「反日」と書かれたことだけで行動してしまった。あるテレビ局で、街宣をかけた右翼の青年にインタビューしてましたけれど、彼もちょっと戸惑っている。意外に簡単に上映中止ということになってしまって、自分も見てみたいといったことを語っていました。
ですから何かね、この問題というのは何かというと、結局そういうふうに右翼が2、3回と聞いてますけど、街宣をかけたということだけで、全部がこう、崩れてしまった。つまり踏みとどまることができなかった、ということなんです。
これは田原さんが言われましたように、個別の映画館の問題じゃなくて、日本の社会自体がですね、そういうふうに何か圧力を受けたときに踏みとどまれない。自分たちのプライドですね、映画館のプライド、あるいは映画をつくっていく人たちのプライド、そういったものがですね、どんどんどんどん後退をしてしまっているということじゃないかと思うんです。
ただ、こういう後退現象といいますかね、そういったものは、実はすべての領域において起きていると思われますけれど、やはり特徴的なのは、国家とか権力とか、そういったものを批判するような行為、もしくは日本人の民族意識に触れるような、そういったものに対して非常に強い圧力と抗議がかかってくる、ということが特徴なんです。
それに対して表現の自由を守るということです。つまりこの社会というのは、みんなが自分の思っていることを自由に議論し、そのことによってこの社会をいい方向に持っていこう。その民主主義の社会の基本にあるのが、言論の自由なんです。
ですから僕は、この映画の評価は様々あると思うんですけれど、上映できない、あるいはさせないということ自体が、僕らが生きてる社会の全体の危機だと思って、この場に来ているわけです。
こういうことが二度と起こらないように異議申し立てを行わないといけないし、なぜこういうことが起きたのかということをジャーナリストとして、あるいは日本の市民社会に生きる一人ひとりがですね、きちんと考えていく、そういった事件だっただろうと思います。
こんにちは、漫画家の石坂と申します。今日はたくさんの方においでいただきまして、お集まりいただきまして、ありがとうございます。
私ね、漫画家って言ってますけど、雑誌のはじっこで仕事をしているだけで、大した漫画を描いておりません。だから、ちょっと自分の仕事の内容はですね、お恥ずかしいことを棚上げしたうえでのお話をちょっとお許しください。
たとえば南京虐殺、従軍慰安婦問題、集団自決、強制連行、靖国、どのテーマをとっても、いま漫画で雑誌に載ることは、おそらく難しいと思います。どれを書いても、おそらく雑誌でとりあげてもらえない。
10年前は、ぎりぎり書くことができたと思います。いま見かけることはできないですね。
外圧があったということはいろいろ言えると思います。新しい歴史教科書を作る会が発足して、従軍慰安婦に関して国は関与していない、軍は関与していない、と言い切っている。たとえば、南京虐殺の絵が一枚載っただけで、雑誌社がすぐ右翼の街宣車に囲まれる。
いろいろあると思いますけれども、私たちが気をつけていかなくちゃいけないのは、 10年前だったら見ることができた絵が、映像が、言葉が、とっくに消えているということです。
それはね、悔しいなと思うんです。私はまだこの『靖国』という映画を見ていません。いま隣で田原さんと野中さんがごらんになったと聞いて、悔しいとかずるいという気持ちになりました。
テレビでこのことが報道されて、一部分映画のカットを見ただけで、ものすごくひきつけられて、見たいなあと思いました。これが見られないということは、本当に悔しいし、腹が立ちます。もったいないと思わないですか? いまここでスクリーンがあってこれを上映したら、皆さん見たいと思いませんか。そういうことがわれわれから奪われているということ。これは由々しいことだと、気をつけた方がいいと思うんです。
日本でこの映画を見ることができない、阻害されているとして、これをですね、私たちの手の届かないところで、中国の人が、韓国の人が、アメリカで、ヨーロッパで、皆さんが絶賛して見ている。日本の靖国はこういうことらしい。これを見るのを嫌がっている人たちがいるらしい、と。
私たちが参加できないところでですね、そういった形で表現がほかの人たちに解釈されること、これを悔しいと思わなきゃ嘘だろうと思うんです。私たちはこの国の映画として、まず最初に見たい、とり返したいと思うんです。
日本はよくほかの国の表現について、民主化されていないと批判したりすることがありますね。しかし、もうこの国だって他国から見たら、ずいぶん文化的にはお粗末な、後進国だというふうに思われているんじゃないかと思います。
靖国の映画が、こういう形で浮上して、皆さんが気にとめてくださって、これからメディアに載せてくれること、ぎりぎりで、ここでわれわれががんばれるかどうか、試されることだと思うんです。ぜひ報道を、皆さんの意思を持ってですね、扱っていただきたいと期待したいと思います。
それとですね、国会議員の方、とぼけたことをおっしゃってます。上映されないということは非常に不本意である、とされています。国会議員の方もプロだったら、自分たちがどれくらい権限をお持ちか、どれくらい影響力を持っているのか、自覚していただきたい。
今日は映画界の現場で自覚されているプロの方たちが、たくさんお集まりです。ぎりぎりの声をですね、どうぞ、この映画をまだ見ていない方々に届けていただけるようにお願いしたいと思います。
こんにちは。こういう集まりに出るのは初めてなんですけども、ここに並んでいる人間がアピールする側で、皆さんが取材をする側という分けた考え方を、今回のようなテーマではするべきではないと思っています。ここに集まってきている皆さん全員の日々直面している問題なのではないかと僕自身はとらえていますし、だからこそ僕もここへ来ようと思ったわけです。
いま映画の内容について、偏っているとか、反日であるとか批判があがっていることは、もしあったとしても上映したあとに起きるべきリアクションだと思うんですよね。
そこはたぶんどんなリアクションがあってもかまわないだろうし、そこで多様な意見が交換されて、僕たちが、たとえば靖国なら靖国に対して考え方を深めていく、議論をそこで積み重ねていくというのが、たぶん成熟したパブリックのあり方だろうと思うんです。
そういう意味でいうと、公共的なものとか公共性(パブリック)というものとらえ方が、たぶん政治家の方もわからなくなってる。伝えている、ここに集まられている方は、たぶん公共にかかわられている方だと思いますけれども、そういったものをきちんと権力と対峙して、僕たちが成熟させていく責務を負っているのだというということを、共有の認識としてぜひ持っていただきたいなあと思います。
僕は日ごろテレビをやっているので、ちょっと自分の話をすると、テレビはまさにパブリックなものだと思いますけれども、そこに出す企画、出す企画がですね、やはり非常に通りにくくなっている。特に権力に都合の悪いものを企画で出すとですね、「あー、うち免許事業なんで」って逃げられ方をされることが、笑い事でなくある。それは放送に携わっている人間が、たぶん自分たちがやっていることがですね、公共的であるということが逆に表現の自由を狭めているという認識がないんだと思うんです。そこを、根本的に考え方を変えていかないと、どんどんどんどん表現する場所が失われていくんじゃないかと思っています。
僕は専門家ではないですけど、助成金について今回いろいろ問題視されていることに一番問題を感じているんです。僕自身も、自分がつくるものの助成金を申請することがあります。通ることもあれば、通らないこともあります。ただ、それは企画の段階で、映画に対して見識を持っている方たちに審査をしていただいて、純粋に芸術性、この芸術性というのを何を基準にして評価しているのかは非常に難しい問題だと思いますけれども、そこに口を出すつもりは申請している側からするとないです。ないですけれども、それは純粋に芸術性を評価し、判断して助成金を出すか出さないかを判断しているんだというふうに考えるしかないわけです。
そこに政治的なメッセージの偏りがあるかないかというようなジャッジが少しでも入ってくるようなことがあると、それは政府と一体化した形での文化助成というような、非常に矛盾した形のお金の使い方になるだろうと思うんです。そうならないためにわざわざ、文化庁の助成とは言っていますけれども、芸術振興なんとかという第三者機関をつくってですね、そこで独立に審査をしているんだと思うんです。
そこに政治家が、そのお金の使い方に対して口を出すということに、ある雑誌では、税金の使い方に対して政治家がチェックをするのは当然だというようなことが書かれてありましたけど、チェックをする権利があるとすれば、それは間違いなく私たちであって、権力ではないと思うんです。
そして、私たちが使い方に関してうんぬんするのは、やはり映画が公開されたあとだろうと僕は考えています。
助成金という公の金をどういうふうに使うのか、それがいったい誰のものなのか、そのあたりをぜひ皆さん、考えていただければなあと思っております。以上です。
こんにちは。是枝さんと違って、僕はこういう話だといつも出てくるんで、もう皆さん飽き飽きてると思うので、短くすませます。
まあ、なんと恥ずかしいことをしてくれるんだろうと、つくづく思います。その稲田さんとか、有村さんという方々。そりゃ、僕らもですね、言論の自由がどうとか言いながら、じゃあそれに見合った仕事をしているのかと言われりゃ、ろくでもないことしかしてません。
ですから、いままではこういう席があると、たいがい権力批判するのは当然だけど、その前に僕らがそいつらをきちんとチェックする仕事をするのが先だろう、というようなことを言ってました。
いまもそういうふうに言いたいんですけども、しかしまあ、およそ出演者にまで圧力をかけ始めるというのは、これはいったいいつの時代なのだろうと考えざるをえません。つくづく最低の世の中になってしまったなあと思います。
何が伝統と創造の会なのか。こんなものが日本の伝統であってたまるはずがないじゃないですか。日ごろアメリカの言いなりになって、アメリカの戦争に兵隊や金まで出すような連中が、何が愛国心なのか。ふざけるのもいい加減にしてもらいたいと思いますね。
それと、こうやって僕ら集まると、みんなフリーなんですよね。なんでフリーばかりなんでしょうか。フリーはまあ、あちこちで顔を出すのが商売ですから、これはこれでやったっていいと思います。だけど、本当はこんなのね、新聞やテレビや雑誌の社長が全部並んで、一緒にやる話ですよ。なんで僕らばっかりがやらなきゃなんないのか。彼らはいったい何をやっているのか。いったい何がテレビや新聞の商売なのか。もういいかげんにわからなきゃいけない。
マスコミ悪い。しかし、実はそのマスコミも政治も支えているのは国民です。あえていいますが、市民社会がどうとかいう綺麗事はもう言いません。ああいいう連中に票を入れる人が悪いんですよ。だって、それを支持してるんだもん。やってくれって言っているんだもん。それで自分たちの言論どころか、思想信条の自由まで自分で首を絞めて、あげくどうなるんですか。
住基ネットのときといい、このあいだのビラで有罪になった話だとか、もういいかげんわからないと、僕らはまともに生きてくこともできなくされるんですよ。
僕らの思想だとか、言論だとか、生命だとか、尊厳だとか、そんなものが全部連中に支配されて、あげくどういう世の中になるのか。僕ら自身も、またここにいない、ああいう人たちに投票する人たちも、いいかげんまじめに考えてもらいたいとつくづく思っています。
皆さんを攻撃してるわけではないので、申しわけありません。声が荒っぽくなりました。
こんにちは。私はこの映画をまだ見ていません。見なければ話にならない、だから見せろ。日本には、言論、表現の自由があるんだ。批判があっても何があっても、見てからの話だと。というのがまず基本的な考えです。
3つくらい話をします。
ひとつは、今回文化庁の助成等にいちゃもんをつけた、稲田なにがしさん、有村さん、2人の名前があがっていますが、こういった国会議員の皆さん、映画の楽しみ方とか、見方とか、何も知らない、本当に文化的に程度の低い連中だなと思います。
映画というものがいままで、たとえば宣伝の道具としてですね、ナチスドイツだの、ソ連だの、中国、北朝鮮もちろんです、散々使われてきたこともある。あるいはレジスタンス映画とか、抵抗の映画とか、人々をどれだけ勇気づけてきたか。そういうことを一切わかっていない人なんだなというふうに、ちょっと唖然といたします。
文化庁が助成をつけたその使い道はともかく中身ですね、それに文句をつけるというのは、私は、たとえば総会屋に金を渡して、右左左右しようという悪徳企業と同じ発想だと思います。非常に下劣で、おぞましいというかな、馬鹿馬鹿しいというか、くだらないというか、そういう発想ですね。このような人たちが国会議員であることは、非常に恥ずかしいと思います。これは斉藤さんと同じ意見。
で、国政調査権という話が出てきたので、一言。
ちょっと読みます。憲法第62条ですが、「両議院は、各々国政に関する調査を行ひ、これに関して、証人の出頭及び証言並びに記録の提出を要求することができる」と明文規定があるんですね。
これにもとづいて、国政調査権を振りかざしてですね、試写等を求めたということになっていますが、21条は読んでないのでしょうか。
憲法21条「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」。
たぶん読んだことがないんだと思います。読めばわかります。62条は、両院はこれこれのことをできると書いてあるだけです。21条は、一切保障すると書いてあります。どっちが強い調子で大事なんだと訴えているのかは読めばわかりますね。
国政調査権というのは、たとえば行き先がわからなくなっちゃった5000万件の年金、そういうのに使えばいいですね。映画の中身に文句をつけるなんていうのは、国政調査権のまったくの乱用で、許しがたいと私は思います。
もうひとつ。先ほど田原さんが、街宣をかけた右翼に、おまえ何をやっているんだと言っている右翼、という話をしていましたけれども、日本の右翼は見てもいないものにガタガタ言うほど、私は愚かではないと思います。それから、国会議員がガタガタ騒ぎ始めたから、その尻馬に軽々しく乗るような人たちでもないと思います。むしろ国会議員というのは、腐敗・堕落の象徴的な存在じゃないですかね。
じゃあ、そういうものが何で上映中止になっちゃうのか。私は、非常にたちの悪い自己規制ということだと思います。これは、たとえばNHKにもですね、あるいは民放テレビにも、先ほど現場と上の話が出ましたけれど、上にいけばいくほど、あると思います。私たちは、まあメディアに関わっていますが、この非常にたちの悪い自己規制というものに対してたたかっていかなければいけないと、そんなふうに感じています。以上です。
『創』の篠田です。短めにいかないと、人がいっぱいいるんでね。
この映画については、隣にいる鈴木(邦男)さんと去年11月にお会いしたときに、その時点で鈴木さんは2回目だと言っていましたけど、その時点で週刊新潮が動きだしていたんですね。それで心配しました。
いろんなケースを想定して、そのなかの一番悪いケースで、3月下旬にいったんです。一時期、東京だと全面中止ということになったので、これはひどく絶望的になりました。ここまでいっちゃうのかと、日本における言論表現の自由がこういう状況なのかと思いました。
けれどもそのあと、いろんな議論が起こって、メディアも報道してね、それから今日あとで紹介するのでしょうけども、いろんなところが声明を出した。たぶん、メディアがこれだけ一致して声明を出せたのは久々なんですよね、実は。個人情報保護法のとき以来かと思うんですけどもね。
ということで、これはきちんと議論していくという意味で、ひとつのきっかけになったのかなと思うんです。
私がひとつ申しあげたいのは、これをきちんと検証しないとならない。ある意味じゃ、すごく日本の状況を象徴している事件なんですね。つまりそれはどういうことかというと、一般的にこれだけ上映中止が続くと、相当な街宣攻撃とかがあったのかって一般の人は思うと思うんですけど、実はそうでもない。そうでもないにもかかわらず、連鎖反応でね、これだけ自粛がばーっと広がっちゃうのが、極めていまの日本的な状況なんです。
ですからここのところ、何がどうなってこういうことになったのか、きちんと検証しないと、前例にいきません。言論の自由を掲げるだけじゃダメなんで、つまり古典的な暴力とたたかってね、その結果負けたとかっていう状況じゃないですね。すごく、あっという間に自己規制が走るっていうことになっている。
ペンクラブの声明もこのなか(配布資料)に入ってまして、私は言論表現委員会の副委員長という立場でもありますので、この起草にもかかわったんですが、そこのなかでも指摘してますけど、こういうケースがすごく多いんですね。プリンスホテルの問題もそうでしたし、つくばみらい市で講演会が中止になったのも、すごく似ているケースです。
要するに、会場使用者とか主催者側が自己規制して、どんどん表現の場をなくしちゃういうことが、いますごく多いんです。ですから、これはこれだけ議論になって、すごく典型的な事例ですので、そのへんをメディアにかかわる人たち、言論にかかわる人たちが、ちゃんと検証して、どうすればいいのかを考えていただきたいと思うんです。
さっき、石坂さんの話した、何かこういうテーマをやるだけで街宣車にとり巻かれるという話をちょっと補足すると、実は街宣車にとり巻かれなくても、こういうテーマって、できなくなっているんです。従軍慰安婦とか、南京虐殺とか、そういうテーマはほとんど、いま集会をやろうとしても、まず会場が借りられないという状況になっている。
あまり目立たないんですけれども、日本の言論の状況って、非常に脆弱になっています。それがもろに出たのが今回の事件なんです。ですから、そこんとこを他人事とせずに、言論とか表現にかかわる人たちがみんなで考えなくちゃいけない事件だと思います。
鈴木邦男です。すべての責任は僕にあります。申しわけありません。先ほど、李監督に会ったときも、そう言って謝罪しました。
僕は最初からずっとかかわって、非常にいい映画だと思っていましたから、推薦文も書きました。そうしたら、右翼の人たちに、こんな反日映画に推薦文を書くなんて、お前も反日だと批判されています。
でも、僕は公開したうえで、そのうえで反日であろうと何であろうと、賛成する反対する、そういう論議をすればいいと思って、いろいろ右翼の人たちにも、説得しましたし、また映画館に対しても、僕でよければ、行って話をすると言いました。
でも、ダメでした。まったく力がなくて、残念です。で、全館中止になったときにも、僕も話を聞いて、悔しくて涙が流れました。それは誰が悪いというわけじゃなくて、やっぱり僕が悪いんですよ。40年間右翼運動をやっていて、これぐらいの力しかなかった。まったく無力だった。そういう意味で自己批判をしたいと思います。
で、そのうえで、生意気ながら皆さんにも言いたいのですけれども、やはりいまいろいろ責任者探しというか、犯人探しをしてます。週刊誌が悪い、国会議員が悪い、いや時代の空気が悪い、自己規制が悪い。いや、そんなことはないと、俺たちはただ750万円の助成金を問題にしただけだったと、やめろと言ったことはないと。みんな言っています。
じゃあ誰が中止させたのか。まあその、僕は第一に僕が責任があると思います。と同時に、やっぱりみんなが少しずつは責任があるのじゃないかと思いますね。
週刊誌は、確かに右翼にやれとあおっているわけじゃない、中止しろと言ったわけじゃない。国会議員も中止しろと言ったわけじゃない。
でも右翼の人たちはね、非常に純真ですから、まじめですから、でまた週刊新潮や国会議員を100%信じているわけです。そういう人たちが言うのだから間違いないと。で、俺たちには言論の場がないと。だから、街宣車で抗議するしかないと。そういう形で自分たちはやるしかないと思ったんですね。
ニュース23で右翼の人たちが出てましたけど、われわれには街宣車しかないと。言論の場がないと。もっともっと言論の場が与えられたら、街宣なんかやらなくてもいいんです。だったらば、そういう場を与えてあげたらいいんじゃないですか。はっきりいって、そっちの方がもっと怖いかもしれないですね。僕も昔、街宣車で行って、馬鹿野郎この野郎なんて言ってましたから。その方がはっきり言って楽です。こういうところに引きずり出されるよりは。
それで、街宣カーは、なんか2台しか行っていないですね。だから、皆さんも何十人でも行って、映画館の前に行って、右翼の街宣車が来たら、みんなでマイクを突きつけたらいいんですよ。そうしたら、信念のある、本当に思想でやってる人たちは、100%そうだと思いますけども、そういう人たちはありがたいと思って、堂々と議論するでしょう。ただ嫌がらせで行く人ならば、とてもじゃないけど嫌だといって帰るでしょう。そういうのは、皆さんがきちんとやってくれればいいと思います。
また、映画館がだらしがない、という人もいます。しかし、それはかわいそうです。右翼は怖いですよ、はっきり言って。僕だって脅されてますから。だから、じゃあ誰が守るのかということですね。やはり言論に命をかけているという皆さん方が、やはり守ってあげるしかないと思います。
さっき言ったように、タレントが離婚したりどうのこうのと、そんなところに何十人も集まるわけですよ。だったら、その余力があるならば、映画館の前にきちんと待機してあげたらいいでしょう。で、街宣車が一台でも来たら、みんなでワーッと何百人でも囲んで、話を聞いたらいいでしょう。僕だったらその方が嬉しいし、話をします。嫌だったら逃げ帰るでしょう。
きちんと自分たちは、新聞もテレビも、いろんなメディアの人たちも、右翼の人たちにも言論の場を与えると、だから、こういうみんなが怖がるような街宣はやめてくれと言ったらいいんじゃないですか。簡単な話じゃないですか。国家の問題だとか、それから権力の問題だとか、そういう問題ですか。違うでしょう。
そんな小さな問題なのにもかかわらず、これだけ大きくしてしまった。そういう問題というのは、みんなで考えてもらいたい。もちろんさっき言ったように、責任は僕が一番あります。ですから、攻撃するならば、批判するならば僕を批判してもらいたい。殴るなら殴ってもいい。そのうえで、この問題を考えてもらいたい。
僕は、李監督とは、750万円の助成金を貰ったのが、ああだこうだと言うならば、この映画は必ずヒットしますから、750万円は文化庁に叩き返してやったらいいじゃないか、と言いました。
でも、文化庁が出したというのは、僕は非常に誇りにすべきことだと思います。百歩譲って、これが反日映画だとするならば、そんな反日映画に対してもお金を出すというのは、日本の誇りですよ。日本の余裕ですよ。日本の寛容さを示すものですよ。いま日本の誇りなんてほとんどないでしょう。唯一の僕は誇りだと思うし、唯一僕は愛国心を持てることだと思います。
それからまた、最後のシーンで、いろいろ南京の写真が出てきます。はっきりいって僕も愉快ではありません。また、あれはウソだと言う人もいます。ならばクレジットをつけてもいいだろうと、これはいろいろ論議がされていると。あるいはどうしてもインチキだというならば、それをとってもいいだろうと監督に言いました。たった何秒かの問題で、全体を否定されてはたまらないと思いましたから、そう言いました。
でも、監督は絶対違うと言いました。ならば、それはそれ以上、僕は言えませんよね。あとは、見た人たちがみんな判断して、そのうえでこれはどういう映画だと考えたらよいと思います。
僕が非常にすばらしいと思ったのは、あのなかで、右にしろ左にしろ、いろんな人たちが出てきて、抗議運動しますよね。抗議運動のやり方を、あれを見て、なんだこいつらはこんなことをやっているのか。これはすばらしいと思う人もいるでしょう。
それに対して李監督は、これは正しい、これは間違っている、と言わないですよね。それを見た人が判断してくれよと、判断してくれと言っています。非常にすばらしい映画だと思います。
ですから、僕はいろいろやってきたつもりです。でも、まったく力がなくてこういう結果になって残念です。自分自身の責任を感じてます。終わりです。
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ジャン・ユンカーマン(John
Junkerman)
映画監督
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こんにちは。皆さんの発言につけ加えることはあまりありませんけど、2点ほど触れたいと思います。
この映画が2、3年前に公開された日韓合作映画の『あんにょん・サヨナラ』に続いて、靖国問題をとりあげている2つめのアジアと日本のあいだの合作映画です。
この映画が反日とか問題作とかいう扱いではなくて、こういう形で、アジアのほかの国と手を組んで、靖国問題をとりあげて一緒に考えましょうとしていることを、評価して歓迎すべきだと思います。
靖国問題を、靖国バッシングとか日本バッシングとかいう道具として使うのではなくて、靖国問題の表面だけを話すとか、総理大臣が靖国参拝するかどうかという問題ではなくて、靖国の精神、靖国の顔、靖国の意味を探って、深いところまで探って、一緒に考えようとしているのが、とても大事なことだと思います。アジアの諸国とのあいだで靖国がいろいろな問題の焦点となったり、摩擦の原因にもなっているなかで、こういう形で合作映画で問題をとりあげるということが、とても大事で、評価すべきだと思います。
もうひとつは、この映画が中立ではないとか、偏っているとかいろいろ言われているのですが、ドキュメンタリー映画をつくるというのは、作者の視点から直面している社会問題をとりあげて描くということで、それがドキュメンタリー映画というものなのです。それを偏っているとか中立ではないとか問題にするというのは、映画の本質をわかっていないということだと思います。
また、日本の政府がドキュメンタリー映画を援助するのなら、こういうスポンサーのつかない映画、TV局がタッチできない映画、配給にいろいろな困難に直面する映画こそ援助すべきだと思います。ありがとうございます。
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豊田直巳(とよだなおみ)
日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)共同代表
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こんにちは、豊田です。今日の緊急会見、記者会見の重要なテーマは、ほとんど出つくしていると思います。ふだんは私は、そちらにいる皆さんと同じ位置に座って、写真を撮ったり原稿を書いてるもので、日本ビジュアル・ジャーナリスト協会はジャーナリストの集まりですので、皆さんと同じ立場にいて取材しているものです。
そのうえで今回の問題を考えたときに、自主規制の問題もありましたけれども、私たち自身も鈴木さんではないですけれど、大きく反省しなければいけないなと思うことがあります。
といいますのは、この1年間だけで、私たちの会員にかかわることだけでも、去年3月には、従軍慰安婦の映画、あるいは中国に遺棄してきた映画を撮った海南友子(かなともこ)がネット右翼というんですか、脅迫まがいのことをされる。あるいは従軍慰安婦のことをテレビで流した土井敏邦が、テレビ局のスポンサーサイドに対する圧力をかけられる。劣化ウラン問題を追ってきた森住卓が、防衛庁によって調査活動を受け続けていたということが表になる。というようなことがずっと続いていて、そのなかでジャーナリストの仲間である私たちが、そのことをどれだけ日本社会にジャーナリズムとして訴えかけ、問いかけ、そしてとめるさせることができたのかというと、非常に恥ずかしいものがあるわけです。
今日は、そういう反省を込めててこの場に立たせてもらったわけですけれど、今日取材に来てくださった皆さんのなかにも、日常のジャーナリズム活動のなかで、何が報道されなければいけないのか、何が報道されるに値しないかをきちんと峻別しながら仕事をしていただければなと思います。
実は私自身も、象徴的に思ったのは5年前、イラク戦争の空爆下で1カ月取材して、日本に帰ってきました。当時、フィルムを現像してさあ発表するぞといったときに、日本の雑誌の編集部は「豊田さん遅いよ、タマちゃんだよ」と言われたんですね。多摩川のタマちゃんが全盛でした。
こうやってイラク戦争が日本のメディアから消えていったということを思うと、私たちが何を取材し、何を報道しなければいけないのか、おそらくそのことが、今回の靖国の映画を上映できないような社会をつくってしまった一端にあるのではないかと、反省を込めて申しあげたいと思います。
ですからこういう場ではなくて、私たちも仕事を通してこのことを解決していくような日常になれればと思っております。よろしくお願いします。
服部です。今朝起きて、神奈川新聞を読んで、有村さんの横槍といいますか行動を見て、ここまできたのかという感じがしました。あの映画に対して、いろいろな形で横槍とか、ちょっとでもつつけばいろんなものが壊れていく。言論の自由というのは、どこか一カ所さえつつけば崩れ去っちゃうわけですね。
稲田さん、有村さん両議員の発言、あるいはその後を受けて自民党のトップの人たちは、「表現の自由を否定するつもりはなかった、上映の中止にまで追い込むつもりはなかった」ということを言っているわけですが、表現の自由は、尊重するとか言葉に出すだけでは意味がなくて、それを実践させなくてはまったく意味がないんです。
今朝の新聞を読んで感じたのは、明治憲法のなかでも表現の自由を書いているですね。しかしながら、ただし書きで“ただし法律の制約のなかで、法律が認めるなかで”と、法律の制限をつけている。いろいろな言論弾圧の法律がたくさんあった時代ですから、その範囲内だったなら言論出版の自由は認めると書いているだけです。(第29条
日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス)
いま冷静に考えてみると、そういう法律がまったくないとは言いませんが、ほとんどないわけです。なのに、そういう状況になっているということは、二人の議員だけでなくて、もっといろんなことがあるんでしょうけれども、なにか坂を転げ落ちているように感じざるをえません。
いまからちょうど10年前の1998年6月、横浜のシネマ・ジャック&ベティーで『南京1937』という映画が上映されて、即スクリーンが破かれました。
僕はその日は授業だったので行けなくて、次の日朝から妻とともに行ったのですが、黄金町の駅前に街宣車がたくさん、10台前後いたと思うのですが、ともかく走り回っていて、「国辱的な映画はやめろ」とか、「朝日と同じような史観に立つような映画を上映するのはやめろ」ということを繰り返し繰り返し言っている。そして映画館に行ったら、スクリーンは破かれているけれども料金はそのままとる、申しわけないけれども了承したうえでお支払いください、という形で僕は入りました。
100人弱の映画館でしたけれども、そこに警察官と見られる人が3分の1、完全に右翼だと思われる人が3分の1、あと、ここにいるわれわれのような人が3分の1。スクリーンの両側には、若い屈強な機動隊員と思われる警察官が、長い棍棒を持って仁王立ちしている。そのなかで上映が始まったんです。外からは街宣車の音がガンガン聞こえてくるんです。たえず、深刻なシーンでも朝日なんとかを批判とか、そういう声が流れるなかで上映が続いてました。
ただ終わったあとに、僕の隣にいたおじさんが、右翼のおじさんで、「こんな映画を上映しやがって、どう思う兄ちゃん?」と言われて、傘を振り回して「何かあったら俺は怒るぞ」と言っていたんですが、終わったあと泣いていて、「いい映画だったね」って言ったんです。
つまりは、僕はどんな映画であっても、出来不出来はあると思うんですが、僕はまだ見ていませんが、ただ見てから議論しなきゃいけないんじゃないんです。すべてはまず見せることなんです。
それとまったく同じ時期に、東映がつくった映画で『プライド 運命の瞬間』という東條英機を神格化する映画が上映されていました。映画の一部の労働組合は、上映禁止を求める声をあげていたし、一部の文化人たちも上映するなということをやっていて、僕はそうじゃないだろう、その映画も上映させるべきだろうということで、ある人と大喧嘩になったことがありました。
その映画館にもその日の夕方行きました。横浜の大きな、700人から800人入る劇場で、十数人しかいませんでした。そのがらがらのなかで映画を見たら、確かに映画としては上手につくってましたね。けれども、東條に対してこんな見方しかできないのかと思った。僕以外の10人の人たちを見ていたら、ほとんどの人が寝てました。僕は野次馬根性で見てたんで、しっかり見終わったんですけれども、そういう映画でもどんな映画でも、最初から元を断つということ自体の危険性ですね。
皆さんにぜひしていたきたいのは、この映画が上映されたときには出かけて行って、1800円なりを払って、座席に座ってその状況を知ってほしいんです。
僕はジャック&ベティーで見て以来、ジャック&ベティーのファンになって、よく行くんですが、劇場は立派にはなっていかないで、どんどん傷んでいってますが、あの切り裂かれたスクリーンでも上映ができたんだってことなんです。
先ほど上からの圧力だとか、上からの指示だとか話があったんですけど、上映を決めた小屋主の人たちは、それなりの思いがあって決めてるわけですね。ですからそれを支えるのは、あとは観客しかいないんですよ。それは右も左も関係なしで、観客しかいないんだと。
ですから、機動隊と右翼と一般市民に囲まれた映画上映会であっても、決して健康的な状況ではないんだけど、そういう形であっても、上映はなされなければいけないわけで、上映をとりやめるっていうこと自体が最悪の状況なんだということです。
そして僕は今後、いったいなんであの二人がなんでああいうことを言ったのか、それからメディアがあの二人のことをなぜ徹底的に追いかけ回さないのか、なぜ雲隠れを許しちゃうのかということを見ていきたいと思っています。
原です。3つに絞って自分の感じを申しあげます。
ひとつは、とにかく見なければ始まらないということ。私もまだ見ていませんが。そのことの重大性みたいなことですね。
日本が民主主義を始めてもう63年目に入りますが、いろんな点で遅れているけれども、表現の自由、言論・報道の自由、そういう点でなかなかわかってもらえない。私自身も十分にわかっているのかと時々反省しますが、その怖さみたいなことですね。それが日本社会全体に、まだまだ十分に理解されていないことを、おたがいにまず確認することが必要じゃないかと、まず第一点、申しあげておきたい。
2つ目は、われわれ、法律的な規制があると言論・表現の自由を守るために反対とよく言ってきたんですけれども、このケース、プリンスホテルのときもそうですけど、何の法令の規制でもないんですね。そのことの重要性をもういっぺん考えてみる必要があるんじゃないか。
私は“法律外的強制”という言葉を使っているんですけども、法律上はまったく自由で、問題がない表現の自由が、事実上、具体的には実現できていない。先ほど篠田さんが日本の社会の特殊性のように言われましたけど、私もその点を非常に重視すべきだと思います。それがいま、言論・表現の自由の一番の問題だといっていいと思います。
法律上の規制だったら、みんな目に見えて反対できるわけです。しかし、プリンスホテルがいろんなことを配慮して、どうもこれはやばいと思って、そういう空気を感じてやめてしまう。あるいは映画館が、世の中のムードみたいなものを察知してやめることにしたという。こういう言論・表現の“自主規制”という言葉を使ってもいいかもしれませんが、これが一番いま、重要な問題だと私は思います。
それはどうしたらいいでしょうか。さっき犯人探しみたいなことの批判を鈴木さんがされましたし、映画館のことを批判するのはかわいそうだと言われましたが、私もまったくそうだと思います。
しかし同時に、批判もしないといけないんだという点も、もう一度確認をしておきたいんです。そして、批判をするからには自分もそのことに責任を持つ、ということがついてまわらないとならない。ちょっとやばいから、俺の場合でもやめるだろうなというふうに同情して、理解をして、映画館もプリンスホテルも無理もないなということで終わってしまったらどうなりますか。そのことをこのケースで考えるべきではないかと私自身は痛感しています。
3つ目は、私は83歳になったばかりで、小学校1年にあがったのが、満州事変の1931年です。軍歴もあります。海軍の軍人だったわけです。
満州事変というのは、日本のマスコミが全部足並みをそろえて、それまで軍部に批判的だったような朝日新聞も、最後に遅れて足並みをそろえた。日本のマスコミ全体が軍部協力し、協力しはじめたとたんに、こんどは軍部を礼賛するような、戦争を推進するようなプロモーターになっていった転機だったんですね。ですから、1931年の9月18日に起きた満州事変を、私は非常に重大視しているんです。
ここ数年来、私の感じでは、どうもだんだん近づいてきているという感じがしてしょうがないんです。皆さんにはあまり実感がないかもしれませんけど、自分の子供のときなどを思いだしながら、いま、どうも満州事変の2、3年前まで来たかなという感じがします。戦前、昭和初期ですね。
靖国の問題が起きたということを、いまからもう一度戦前が来て、もう一度戦後になって、あのときが曲がり角だったなあというふうに思う。そのようなことが実現されてはかなわない。なんとしてもそれを阻止したい。そういうつもりで今日は来ました。
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広河隆一(ひろかわりゅういち)
フォトジャーナリスト、『DAYS JAPAN』編集長
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メディアをつくるというのと、フォトジャーナリストという仕事と、最近映画をつくって、それで現在劇場でお世話になっている人間として話をさせていたきます。
いま表現の自由とか、言論の自由とかが問題にされていますけれども、僕の知る限りこれらは、人々の知る権利にもとづく権利であると理解しています。そしてこの知る権利というのは、人間の生存権、人間らしく生きる権利にもとづくものだと考えています。だからこそ、作品を発表する場所、あるいはメディアが外圧に対して特別の不可侵の場所でありつづけなければいけないと考えています。それを侵す権利は誰も持たない。
もちろん、知る権利は無制限にあるわけではありませんから、それはなぜかというと、この知る権利は人間の生存権にもとづくものである以上、生存の権利を奪うようなものを美化する、それをあおるようなものに関しては制限されるべきだと思いますが、今度の場合は、まったくそういうものではないと考えています。
ところで、劇場の責任とかいうようなこともいろいろお話されてますけれども、現在、この知る権利が、構造自体が危うくなっているということが突きつけられていると思います。
そのなかでも、政治家の責任が大きいと考えざるをえません。政治家の持っている権利というのは、人々が持っている知る権利に比べれば、とるにたらないものだということを、その人たちは勘違いしているんですね。傲慢になっていると考えています。
そこまで国民は、自分たちの知る権利の制限までを政治家に委託はしてはいません。政治家に委託しているのは、この知る権利を守る仕事の一部です。国政調査権は、人々の知る権利のなかで、それを守るためのにこそあると考えるべきだと思っています。
昔、僕がまだ20代のとき、イスラエルで、イスラエルにとって都合の悪い写真、つまりパレスチナの破壊されたの村々の写真展をエルサレムでやったことがあるんです。そのときに大勢の人たちがものすごい批判をしたんですけれども、一人のユダヤ人の若者が、ノートの一番最後のところに、「みんなすごい批判をしているけれども、この外国から来た写真家は、われわれはいつも見ようとしている表の面しか見ないのに、われわれがいつも目をそむけてきた裏の面をきちっと見せてくれているんだ。だからむしろ感謝しなければいけないんだ」と、そういうふうに書いてくれたことがあったんです。
この映画は、もちろん表裏、もっと他のいろいろな面を見せようとしているんだと思います。われわれはあえて眼をそらそうとしている日本の別の面を見る機会を与えてくれている、というふうにここで作家に対して言うことが、これから日本のなかで、いろいろなものが育っていくチャンスを育てることにつながるのではないかと思っています。
映画『靖国』をめぐる抗議について
「鈍感と敏感」
戦前の検閲の歴史、チベット問題などをめぐる現今の国際情勢。そして、「表現の自由」をめぐる世界的常識――あらゆる観点から照らしても、この国の国会議員たちは鈍感すぎて、彼らの好きな「国益」を著しく損なっているのが今回の事件です。
一方で、あまりにも他者の反応に敏感すぎて「空気を読む」ことにおびえすぎたことが、今回の騒ぎを大きくした面があります。
大事なことは、だれもが自分の好きな映画を観ることができ、その映画が好きでない人とも自由に議論できる社会を創ることです。
今回の軽挙・愚挙・暴挙を、禍転じて、そういう絶好の機会とするよう、みんなで努力しませんか。
土井敏邦です。フリーランスのジャーナリストとして、一言申しあげたいと思います。
この映画『靖国』問題で、「表現の自由」という論点だけでは軽すぎるというか、浅すぎるという議論があります。私は、ちょっと違った見方をしています。私は、今回の問題での「表現の自由」には、2つの意味があると考えています。
ひとつは、稲田議員、有村議員に象徴される勢力が上映中止の動きをする、その圧力からこれを守る「表現の自由」です。これは皆さんがいろいろ新聞で読んでいることだと思います。
私が思うのは、おそらく両議員に代表されるこの勢力というのは、文化庁の助成金の資格問題とか、出演者の出演承諾問題とか、ドキュメンタリーの客観性を議論するためにやっているんじゃない。
彼らが本当に怖いのは、どうしても国民に見せたくない、議論されたくないテーマ、もっと突っ込んでいえば、日本を含むアジアの歴史にとって避けて通れない問題に触れること、それが国民の目に触れること、それが国民のあいだで議論されること、それが彼らが最も恐れていることだと考えています。
だからこそ、私たちが「表現の自由」というときには、これを国民の目にさらしていく、国民のあいだに議論をつくっていく、そのために見せていく。「表現の自由」のなかには、そういう意味が含まれていると思います。
もうひとつの「表現の自由」は、“自分のなかの表現の自由”ということです。
ここにいらっしゃる表現にかかわっていらっしゃる方、自分の胸に手をあてて考えていただければと思います。
この『靖国』という映画は、私は日本人にはつくれなかったと思います。なぜか。それは、先ほど申しました国民に見せて議論されたくないテーマ、そのことを私たち自身が、これをやったら危ない、これをやっても発表の場がない、というふうにわれわれ自身が壁をつくって、われわれ自身が自主規制をしている、“自分のなかの表現の自由”に壁をつくっている。これが私はものすごく怖いことだと思います。
なぜ中国人の監督ができたのかというと、われわれが持っている壁、自主規制の壁を彼が持たなかった。だから彼にできて、われわれにはできなかった。そのことを私たちは充分に深刻に受けとめなくてはいけないと思ってます。
つまり私たち表現者、つまり私を含めここにいるすべての方です。表現者が“自分のなかにある表現の自由”を、どれだけ自分が守ってるかということが、いまこの映画に突きつけられていると私は思っています。
これは私個人の話ですけれど、呼びかけ人代表の一人として、皆さんに呼びかけたいことがあります。2つの「表現の自由」を確保していくためには、表現者一人ひとりがばらばらでは、もうたちうちできない。一人ひとりは弱くて脆いもんです。だからネットワークをつくっていこうではありませんか。それはこの記者会見を一過性のものにしないためです。
そのためには、マスメディアの組織にいらっしゃる皆さん方、私たちフリーランスのジャーナリスト、市民ネットワークのジャーナリスト・表現者の方々、これが壁を乗り越えて一体となって、これを乗り越えていかないと、われわれはつぶされる。そういう意味で、ネットワークをつくっていかなくてはいけないと、私は本当に思います。
だから皆さん、ここにいらっしゃる方、いまその母体がありません。しかし私たちは今後呼びかけていくときに、皆さんがすぐ集まれるように、ここにいらっしゃる方にいつでも連絡できるように、名刺なり連絡先を受付に残していってください。もう一度集まらなくてはいけないときが、これから何度もあると思います。呼びかけ人代表として、皆さんに訴えたいと思います。どうもありがとうございました。
映画『靖国』への政治圧力・上映中止に抗議する緊急記者会見
日時:2008年4月10日 13:00〜15:00
会場:参議院議員会館第2・3会議室
13:00〜映画『靖国』配給・宣伝担当者からの経緯説明
13:15〜映画『靖国』李纓監督の発言
13:30〜出席者による発言
司会:安岡卓治(映画プロデューサー)
問い合わせ先:
日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)http://www.jvja.net/
te2662721@yahoo.co.jp
Tel. 090-6101-6113(JVJA事務局)
●関連記事、関連サイト
⇒4月9日緊急記者会見プレスリリース・呼びかけ文(PDFファイル)
⇒4月9日緊急記者会見録画中継
by OurPlanet-TV(http://www.ourplanet-tv.org)
⇒【音声】映画『靖国』緊急記者会見(MP3ファイル、34.3MB)
⇒映画『靖国
YASUKUNI』公式ページ(http://www.yasukuni-movie.com)
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