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樋口陽一さんが語る 一人ひとりの「個人」の自由の大切さ
「自民党憲法改正草案」をめぐって
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⇒映像配信ページ |
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2013年5月17日 明治学院大学国際平和研究所(PRIME) |
WEB&YouTube配信2013年6月26日、改訂版2015年9月11日、字幕版2018年8月13日、テキスト8月20日、制作:映像ドキュメント.com
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「樋口陽一さんが語る一人ひとりの「個人」の自由の大切さ」の内容を文字起こししたものです。
⇒元映像の配信ページ(http://www.eizoudocument.com/0129higuchi.html)
⇒YouTubeでの配信ページ(https://youtu.be/p7L-KogXQwg)(字幕ボタンをクリック)
この日の講義録(新書版)が明治学院大学国際平和研究所(PRIME)(http://www.meijigakuin.ac.jp/~prime/)から出ています。『南を考える』14号 日本の今をどう読むか(http://www.meijigakuin.ac.jp/~prime/publication/201403minami/)
●自民党の憲法改正草案
去年(2012年)の4月に自由民主党が公にしている「憲法改正草案」という文書があり、それには非常にご丁寧にQ&Aまでつけられています。
現憲法13条の「個人の尊厳」の「個人」という文言を削って「人」、要するに犬や猫でない「人」という言葉ですね、差し替えているんです。
【編注】自民党憲法改正草案(全文)
(http://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/seisaku-109.pdf)
日本国憲法改正草案Q&A
(https://jimin.jp-east-2.os.cloud.nifty.com/pdf/pamphlet/kenpou_qa.pdf)
自民党憲法改正推進本部(http://constitution.jimin.jp/)
「個人」と「人」というのは単なる言い換えではありません。
まさに「個人」を主体とする、そこからすべての憲法論議がはじまっているはずなんですね。
●ホッブスの「個人」
まあいろんな人がいろんな捉え方がありますけれども、やっぱり個人を出発点にして世の中を説明する理屈の、まあ誰でも知っている、さかのぼってわかるのはホッブスですよね、ホッブス(トーマス・ホッブス 1588〜1679年)。
それまでは、およそ国家あるいは公共の人々がつくり上げているパブリックな社会、国家と呼ぶか呼ばないかは別として、まあ、いまの言葉でいえば国家です。国家というのは決して神様がつくったものでもなければ、同じ血がつながっている間柄だから寄り集まってつくったものでもない。
あくまでも、フィクションとして、個人の意思から出発して、個人一人ひとりが約束を取り結んで社会をつくるという。
で、ホッブスは「人が人にとって狼である」「万人の万人に対する闘争」ですから。それはホッブスの時代には、宗教戦争の時代ですからね、何よりもそういう個人の安全を確保する、それで一箇所に個人の約束を取り結んでというフィクションでもって権力というものをつくって、それが「リヴァイアサン」ですけど、リヴァイアサンというのは決してお化けではなくて、個人の意思によってつくりあげられたフィクションとしての国家のシンボル。ですからホッブス自身が、リヴァイアサンというのは「死すことあるべき神」、モータルゴッド(mortal god)だと言ってますでしょう。
●ロックの「自由」
で、次に出てくるロック(ジョン・ロック 1632〜1704年)。ロックにとっては個人の何よりも自由。
一旦、まあリヴァイアサンってのはそういうもんだけど、とにかくそういうものをつくっちゃったら、それが乱暴する。それを縛る「自由」という、これはロックのメインテーマですね。
近代憲法の我々が憲法を議論するときには、やっぱりロックが中心になるのは、一人ひとりの約束でつくりあげたはずの権力というものが勝手に動きだすから、それを縛る。国家からの自由、一人ひとりの国家からの自由と、こうなるわけですね。
まあその後にさらにいろんな、まああの、ルソーが出てき、そういう一連の、この大きな思想史の流れを背負い込んだ言葉ですよね「個人」というのは。
それがまさに「個人」では困るから「人」になってくれ、というふうに我々は言われているわけですよ。ですから、そこから議論は出発させる必要がある。
●憲法前文を全否定する改憲案
なぜそうなのかというとですね。いまの改憲案では、何よりも前文、それを全部否定します。全部差し替えです。で、なぜそうなのかというと、 Q & A が正直に言っております。
いまの前文は天賦人権の匂いがする。だから、これをまず削る、というふうにQ&Aではっきり言っております。
まあおそらく天賦人権で、そう言ってる人たちは、まあキリスト教的な背景だけを勝手に考えて、日本には日本のやり方があるというお決まりの論法なんでしょうけれども、そこに出てくる単語、長い歴史、固有の文化、天皇をいただく国家、国と郷土、誇りと気概、和を尊ぶ、家族助け合って、良き伝統、末永く子孫に継承する──。
もちろん、一つひとつの単語をとればですね、別段、目くじら立てるまでもない。良き伝統とかですね、互いに助け合うなんていうのは、われわれの日常生活ではですね、まあ、それでいいじゃないかということなんですけれども。
問題は現在のそれこそ天賦人権、「人類普遍の原理」というのが、いまの前文のキーワードですよね。「人類普遍の原理」はダメだからそれを削ってこれだと言っているコンテクストのなかで、いま拾い読みしたような単語を位置づけると、どういうイメージになるか。
●まるでヴィシー政権のスローガン
実はある外国の論争誌、『ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール(LE NOUVEL OBSERVATEUR)』ですけど、それの雑誌記者が訪ねてきたものですから、いまあげたような言葉をですね、単語を彼らの言葉に訳してこう読み上げたら、彼の、彼女なんですけど、彼女の最初の反応は、それはあれじゃないかと、ヴィシー政権のスローガンじゃないかと言うんですね。
ご承知のようにヴィシー政権(1940〜44年)、ナチスに降参して、ヒトラーに協力する政権ですよね。
で、ヴィシーのスローガンというのはですね、フランス革命以来のリベルテ・エガリテ・フラテルニテ、自由、平等、博愛(友愛)というあの3つを、それこそ日本国憲法の前文を全部削っちゃうのと同じですね。それを全部否定して、祖国、家族、で、ヴィシー政権の場合には労働というのが入るんですね。
なにしろナチスというのは、直訳すれば民族社会主義労働者党っていうんですよね。その頭文字がナチスなんで、まあ労働というのはそういうコンテキストがある。
で、「まるでヴィシーじゃないか」っていうのは、「ナチスの下請け政権と同じような思想じゃないか」。
戦後すでに70年の歴史を持っている戦後日本が積み重ねてきたものを、だって看板からして戦後レジームの全否定と言ってるわけですから、これは日本のメディアやわれわれもそういう言い回しに慣れちゃって、聞き流していますけれども、これを英語とかフランス語とかに直したら大変な主張ですよね。
戦後、第二次大戦後の世界秩序まで否定するという。
ですから前都知事とか現大阪市長なんかの、あの一連の言説というのも、そういう文脈で受け取られてるから、これだけ、当然ながら強いリアクションを招いているわけですよね。一体日本は何考えてんだろうか。
●憲法は「押しつける」もの
というのはいまの改憲案、いま権力の座にある人たちが否定しようとしているのは、まず戦後そのものですけれども、実は、日本の戦前の遺産というものを、まったくどうも知らないらしいいうことですよね。
というのは「立憲主義」という言葉は聞いたことがないという人たちが、いまの国会議員のなかで、国会議員の言動として話題になっています。
で、これお馴染みの、改憲論のお馴染みの、日本国憲法は戦争に負けたもんだから、いやいや押しつけられたものだというあの論点にもかかわってくるんですけどね。もちろん、岸信介というふうな人たちにとっては、戦争に負けなければこんなものを押しつけられることはなかったし…。
憲法というのは、必ず誰かが誰かに押しつけるものですから。決して、みんながニコニコしながら賛成するようなものではないですよねぇ。
フランス革命だって、人権宣言は明らかに革命派が旧体制に押しつけたわけですし、アメリカ合衆国独立宣言は、植民地の13州のアメリカが本国イギリスに対して押しつけたものですし、それから、リンカーンの映画がいま話題になっていますけれども、南北戦争の結果、北が南に押しつけたのが奴隷解放の修正憲法の条文(1863年)ですね。
ですから、押しつけられた人間がいる。それがリターンマッチをしようというのは、これは考えてみればあたりまえのことで、驚くにたらないことです。
しかし、そういう人々が理屈としてですね、日本には縁もゆかりもないものを押しつけられたという論法になっているわけですね。
それはもう単純に1945年以前の日本近代史を侮辱するもの、むしろ、それこそ自虐的な議論なんですね。
●伊藤博文と森有礼の憲法議論
で、立憲主義という言葉ひとつをとりましてもね、私、いろんなところでここ5〜6年そのことを言ってるものですから、だんだん国会議員のなかでも知ってくれてる人が出てきましたけれども、大日本帝国憲法をつくるときの有名な、伊藤博文と森有礼(もりありのり)の議論のやり取りですね。
伊藤の、いわば憲法の授業の模範答案とも言うべき
「そもそも憲法を設くる趣旨は
一、君権を制限し
二、臣民の権利を保全するにあり」と。
で、なぜこういう問答になったかというと、森有礼がですね、臣民の権利というところをばっさり削れという提案をしたから。それに対する、模範回答的な、答案的な回答なんですね。
しかし、森というのは、あれですから…、キリスト教に近い開明主義者ですから、ウルトラ右の方から、そういう質問したんじゃなくて、伊藤の先の返事に対して再反論してるんですね。
「そもそも権利なるものは人民の天然所持するところにして、憲法により初めて設け与えられるものにあらず」という、そういう問答をしてるんですよね。これは随分水準の高い話だと思いますよ。
だって伊藤っていうのは、藩閥政権の親玉の一人ですからね。民主主義者でももちろんないし、自由主義者でもない。しかし、世界に伍していくためには法制度を整備しなくちゃいかん。で、憲法というものも必要だ。憲法っていうのはこういうもんだということ。
それから森側にいたってはもう一歩先に行っている。模範答案よりもう一歩、それこそラジカルな主張なんですよね。
●日本が受諾したポツダム宣言に書かれていること
そういうものがあって、だからこそ、ポツダム宣言をつくったアメリカのあの当時の政権、アメリカの政権はですね、そのことをよく知ってた。
ですからポツダム宣言の文句自身が、「日本国民の間における民主主義的傾向の復活強化の障害を除去すべし」。
日本政府はポツダム宣言を受諾することによって、課せられた義務としてですね、「復活強化」への障害を除去すべし。
復活というのは、いまお話ししたことで理解していただけると思いますが、強化というのは何か。私に言わせれば、議会制の運営についてはですね、戦後よりも私は戦前の方が実績があったというのが私の意見です。
どうしても、日本国民の間における民主主義的諸傾向の復活強化のためには、モラルの源泉はあくまでも個人であるという、それこそ個人の尊厳、個人の尊重、憲法13条が掲げられることが必要であったし、必然であった。
これをやめちゃおうという。ここが一番の問題なんです。
で、第9条にしても、そういう全体の構えのなかで、国防軍が位置づけられるんだよ、決して現在の、自衛隊の現状を、そのまま法の世界で認知するなんて話ではない、ということをおわかりいただけるんじゃないでしょうか。
●「正義のための戦争」
何が何でも日本が普通の軍隊と同じようになる、自衛隊を普通の軍隊と同じような国防軍にしてくれというふうには世界中が一致して見ているわけではない、というのは事実だと思いますよ。
しかも、正義のための戦争というのは、いろんなところで起こるわけですよ。起こすわけですからね。
だって現に、いまの安倍首相の立場は、大東亜戦争は正義のための戦争だったとさすがにあからさまには言わないけど、ABCD包囲陣に囲まれて、やむをえず立ち上がった戦争だということを、これはそういう言い方では公然と言ってますよね。
本来の形で、文脈できちんと改憲論が出されてないといういうのが、私の基本認識なんです。
というのは、本来の改憲論はですね、正義のための戦争がありうるんだという立場にまず立つはずです。
するといままでの大日本帝国から日本国に至るいままでの近現代史全体を通して、日本がやってきたことは正義のための戦争だったか、そうでなかったのかということを、はっきりと意識的に問題にしたうえで、まあ恐らくそうであれば、少なくとも1931年以降の十五年戦争というのは、正義のための戦争でなかったということにならざるをえないと思うんですよね。
まぁしかし、それも正義のための戦争だという人がもちろんありうるけれども、しかしそこは徹底的に議論をすれば、確かに正義のための戦争でなかったことをきちんと総括するというのがあって、これからは正義のための戦争だけはやります、と。少なくとも、これまでやったのは全部正義のための戦争だったということを言いながら、国防軍をつくりますよということでは、誰をも納得させられない。
9条を守ろうという側が、そう簡単に人を本当の意味でストンと納得させることは難しいと思います。
しかし9条を変えようという人の議論もそれと同じ、あるいはそれ以上にいま言った点をクリアしない限り、とても、まともにものを考える人を納得させられないはずだ。
で現実に、改憲を唱える人たちがやってきたことは、それをしないというだけじゃなくて、それと正反対の言説を、繰り返し繰り返し唱えてきたわけでしょ。
焦点になっている河野談話にせよ、村山談話にせよ、かなり曖昧なものですけれど、少なくとも、せめてああいうことをある段階での我々が選挙によって選んだ日本の政治責任者が、せっかく言ってるんだけれども、その足を引っ張る言説が後を絶たない。
ここをきちんとしたうえで正義の戦争論を出してほしい、改憲論者は。
私はそのときでもそれに賛成しないでしょうけれども、あの…、たたかうに値する論敵として私は遇するつもりです。
ただ、そういう議論がないんですよね
で、願わくは、いまお話してきたような意味でまっとうな改憲論が出てきて、最後は国民投票で決着をするというのは、当然のルールだと私は考えています。
私の意見は変わらないと思いますけど、そこで負ければ、それは仕方がない。
●故井上ひさしさんのエピソード
仙台の経営者たちがやってるクラブの主催の講演会で、亡くなった井上ひさしが喋ったことの記録が、同じ年の6月の話ですから8月号に『東北の進路』という、その経営者クラブの雑誌に記録が載ってるんです。
86年の6月というとみなさんピンとくる方が多いと思いますけど、この年の春にチェルノブイリがあるんですね。チェルノブイリがあって、彼は「企業と文化」という題で講演を頼まれたんですけど、正面から原発の問題を提起してるんです。
で、電力ホールで、しかも東北で一番のリーダー企業である東北電力がパトロンになっている彼の講演会でですね、そこで彼は堂々と原発不要論を、原発は災いの元だという議論を言ってるんですね。
「私が思いますに文化というのは──企業と文化ですが──文化というのはつまり人間が大自然とどういうふうにつき合っていくか。二番目に人は人とどういうふうにつき合っていけばいいのか。その積み重ねが文化であるというので、これからお話しすることは皆さんの気にさわることが多いと思うけど、皆さんもこの1時間ばかり、しばし企業を離れて一個の人間として考えていただければありがたい」と言って、言葉を尽くして、原発を批判しています。
最後の最後、「何か冷や汗が出ました。企業と文化という題がこんなにつらいとは思いませんでした。皆さんありがとうございます」。
これが「個人」なんですよね。みんながこういうふうに言いにくいことを言いにくい場で、自分自身の良心に照らした言説を言える人は、そういう環境がまずないと思いますけど、少なくともこういう個人像というもの。私はこういう友人を持ってたことを誇りに思います。
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