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福島原発事故をめぐって、映像ドキュメントに様々なかたちでかかわる面々が、それぞれ思ったこと、考えたことを、順次掲載しています。(⇒森まゆみ震災日録は別欄をたてました)
2012年3月2日更新(2011年3月25日掲載開始)
●原発事故当事者たちの責任を「集団的告白」に埋没させるな
東京新聞、2011年12月3日付「芸能ワイド」面の投書コーナー(反響)にこんな投稿があった。「11月27日の『NHKスペシャル』と『ETV特集』(NHK Eテレ) 同時間帯に、両方とも原発事故による放射能汚染に関する内容の放送をしていた。同じ放送局内で、どんな内容を放送するかチェックし合っていないのだろうか? 視聴者の存在が頭にあれば、このような編成はしないのでは? 私はリモコンで替えながら両方を見た」(杉並区・43・会社員)
2つの番組とは、NHKスペシャル「シリーズ原発危機 安全神話〜当事者が語る事故の深層〜」と、ETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図4 海のホットスポットを追う」である。福島第一原発のシビアアクシデントにかかわる番組が、同じ時間帯に総合テレビと教育テレビ(Eテレ)で流れたので、この投稿者はリモコンで2つのチャンネルを切り替えながら見たというのだ。大河ドラマ「江」が最終回で拡大したため、通常は午後9時開始のNHKスペシャルが10時に後退したからだが、これは編成上のミスと言われても仕方がない。
筆者は、一方を録画してみたが、到底、切り替えながらの視聴で理解できる内容ではなかった。しかも、2つの番組は同じ原発事故を扱っていながら、テーマに隔たりがあるのである。
NHKスペシャルのほうは、福島原発の設計段階にかかわった当時の官僚や元東電幹部に、「失敗の本質」(日本軍の敗北を日本的組織論に読み替えた同名本がある)をさかのぼって尋ねる番組である。これに対して、ETV特集は、現在進行中の放射能汚染が海の中にまで広がり、意外なところにホットスポットがあることを実際に探査する内容である。
両者には、質的な違いがあり、ザッピング視聴にはまったく向かない。のみならず、筆者の見るところ、原発事故あるいは原発そのものに対する両者の「思想」にかなりの隔たりがあるように見える。
まず、教育テレビの内容から見ていこう。これは、5月15日に放送された「ネットワークでつくる放射能汚染地図」シリーズの続編で、放射能汚染が陸上のみならず海中にまで拡散しつつあることを、専門家のネットワークと連携しながら客観的に提示するという「調査報道」の手法を採っている。
具体的には、陸上に降下した放射性物質が河川を伝って海に流れ込み、福島県沿岸に「海のホットスポット」を作り、茨城県沿岸部へ移動したことを明らかにした。自然界の複雑な循環メカニズムによって、大地も海洋も汚染されてしまったのだ。
番組は、声高に言っていないが、この事故がPoint of no return(引き返し不能地点)にまで達していること、またNo- where to hide(隠れるところなし)の状態に至っていることを示唆している。視聴者は、ここから重要なレッスンを受けとることになる。少なくとも筆者は、「原発の再稼働は不可」というメッセージを読みとった。われわれはなんという酷い未来を子孫に残してしまったことか。長期低線量被曝の時代を生きていかなければならないのである。
◎当事者責任の追及が甘く、事故不可避の印象与える
これに対して、NHKスペシャルのほうは、原発に対する「安全神話」がどのように形作られ、関係者がどのようにそれに呪縛されたかを、インタビューで構成した番組である。結論的に言えば、こうした「失敗の本質」を探る番組は、一般的に、酷い結果を生みだした原因を探ることで、二度とこのような失敗を繰り返さないという趣旨で制作される。
今度のような深刻な事故を起こした原発にかかわった当事者に証言を求めることは大いに意味のあることだが、はたして、その証言が偽りのないものであるのか、あるいは証言の根拠となるような事実を、取材者がどの程度にぎっているのか、そして証言者とどのような関係の中で取材が行われているのか、視聴者にとっては最大の関心事だが、この種の番組では、それが外から見えにくくなっている。
かつて水俣病の当事者を取材した特集『埋もれた報告』(1976年)の場合には、取材者が多くの事実を事前に調査し、視聴者も情報をある程度共有している。取材者は、その内容に即して証言を求めていくスタイルをとったので、相手があいまいな記憶に逃げようとするのを許さなかった。この番組はNHKの「調査報道」の嚆矢(こうし)と言われたもので、水俣病という取り返しのつかない事件を、つねに現在の問題に引き寄せようとする取材者の迫力が伝わってきた。このときの取材者たちには、当事者はすなわち「責任者」と映っていたに違いない。自らの手では真相を解明できない被害者になり代わって真相を究明しようとする姿勢があった。
それに比して、今回のNHKスペシャルは、安全神話の崩壊をテーマにしながら、当事者の責任を追及する内容にはなっていない。見ようによっては、当時の関係者が、事故は「不可抗力」であったかのように語る、その無責任な表情を明瞭に映し出してはいたが。
折から、東電が出してきた「社内調査中間報告」は、シビアアクシデントは地震によるのではなく、津波による全電源喪失によって引き起こされた、したがって東電には本来的なミスはなかった、国と一体になって指針をたててやってきたので、責任は国にもある、というものであった。
それに関する何人かの証言がこの番組の中で紹介された。たとえば、国の「安全審査指針」では、原発立地の条件を「ある距離の範囲内は非居住区域」として明確にせず、重大事故のときは速やかに住民を退避させるなどといった避難規定もない。もしもそのようなことを明記すれば、とても住民の同意を得られないと考えたからだという。そこから導き出された「結論」は、国土の狭い日本では深刻な事故は起こらないというものだった。また、シビアアクシデントが起きることを国が前提として規制に乗り出せば、原発の危険性を認めることになり、原発差し止め裁判に負けるのではないかと危惧したという。呆れたご都合主義だ。
むろん、この番組は全体として、原発を推進しようとするものではなかろう。とはいえ、原発廃止論とみなされるような話法を注意深く避けている。たとえば、結論部分のキャスターコメントは、「今回の事故で、(原発に)絶対の安全はないということが明らかになりました。福島第一原発が廃炉になるまでに30年以上かかると言われています。私たちは、これからも長いあいだ原発のリスクに向き合わざるを得ないことを決して忘れてはならないと思います」となっている。この部分を聞きながら、筆者は、もしかするとこの制作者は、原発の再稼働を否定していないのではないかという疑念を抱いた。
少なくとも、こうした無責任なインタビューを伝えた以上、ことは、福島第一原発の廃炉のレベルを超え、「これほどの被害を目の当たりにしたわれわれは、原発の再稼働、新規建設をしないことをまずは決定し、その上で、原発のない社会をつくらなければならない」と結論づけることもできたはずである。
◎当事者責任が埋没する集団的告白を許す風土
それにしても、当事者たちは、なぜこれほどあけすけに失敗の理由を並べ立てるのだろうか。そして、一人ひとりは「集団的告白」の中に埋没し、反省の弁を述べるには至らない。「みんなで告白すれば怖くない」という共同正犯に対する黙約でもあるのだろうか。
あまりにも無防備な告白のオンパレードであるためか、キャスターまでが、番組の中でメディアの自己批判を行った。「原発のリスクに向き合ってこなかったのは、はたして国や電力会社だけだったのでしょうか。事故が起きてからしかその問題点を指摘できなかった私たちメディアも原発の安全神話にとらわれていたことは否定できません」。本来ならば批判しなければならない「集団的告白」の仲間入りをしてしまったかのように聞こえる。
こうした包括的な懺悔(ざんげ)は、原発の危険性、原発事故の不可避性、放射性廃棄物の不可逆性などを個々の番組の中で指摘すべきメディアの使命をあいまいにしかねない。その前にまだたくさんやるべきことがある。
この番組に則して言えば、これだけのそうそうたる当事者にインタビューを行ったのなら、最後にこう質問することができたはずである。「あなたは事故についてどのような責任があると考えていますか」、「あなたはいま原発を止めるべきだと思っていますか、それとも続けるべきだと考えていますか」と。もちろん、そうした質問をするためには、被取材者からの情報だけでなく、取材者が独自に入手した材料をどれだけ持っているかが決め手になる。調査報道の鉄則は、独自の取材に基づく材料を持って、当事者へのインタビューに臨み、その場でテレビ的記録性の中で切り取ることである。これが、メディアが自らの番組の中で果たすべき責任であり、一般論としてメディアの責任を自問するだけでは何も始まらない。そして、大物にインタビューをすることそれ自体を、スクープであると評価する風潮が局内にあるとすればもってのほかだ。
取材現場で、そしてインタビューの最中に、どのように相手に対峙するかは決定的に重要である。たとえば、戦後50年の記念番組(95年)で、チッソ水俣工場の技術者たちが、当初から有機水銀を廃液として流していたことを告白する場面があった。証言者は、今回の原発事故の関係者と同様、自らの責任や反省の弁を述べることはほとんどなかった。だが、このときは取材者が質問の肉声をそのまま出していた。
取材者「水俣病の研究というのをふりかえって、どういうふうに評価なさいますか」
元技術部次長「要するに工場、会社というのは物を作り、開発していく、そういう前向きの仕事なんですよ。こうではなかったとか、そうではなかったとかばっかりやっている仕事は前向きじゃないわけですよ。言うなれば、なかった方がよかったんですよ。そういう問題がなかった方がよかったわけですよ」
この人物は問題の所在を理解しながら、その問題自体がなかったほうがよかったとうそぶいたのである。
経済企画庁水質調査課長補佐はこんなことまで口にした。「......あの当時、人が亡くなったからと言われても、僕らはすぐには止められなかったな。そりゃ命は、工場の一つや二つではないことは分かっているけれど、うーん、僕は止められなかったね。産業性善説の時代だから、それを担当する役人が何もしなかったと言われれば、謝るしかないんだよ。ある程度わかっていてやっているんだから。なんていうかな、確信犯だな」
「確信犯」と開き直る元官僚。しかし、聞き手は「ではあなたにはどんな責任があると思いますか」とは切り返さなかった。
前述した「埋もれた報告」では、元通産官僚がチッソ水俣工場に浄化槽をつけさせたと答えたとき、記者は敢然として、「あれは何の役にも立っていない」と反論、官僚を黙らせた。その記録は証拠として残った。
調査報道は、責任者たちの愚にもつかない告白をたれ流して問題を先送りさせず、そこに踏みとどまり決定的な証拠映像を残せるかどうかにかかってくる。
◎想定外を想定した、風変わりな避難訓練
昨年11月20日、佐賀県と長崎県が、玄海原発の全電源喪失を想定した避難訓練を行った。福島第一原発事故をうけて、佐賀県は避難区域を10キロ圏内から20キロ圏内に、長崎県は30キロ圏内にそれぞれ拡大。30キロ圏外に逃げる訓練を行った。参加者は屋内待避を含め3万2000人。このニュースを見ていて、筆者は、この国では福島並みの過酷事故が起こることを想定してまだ訓練をするつもりなのかと不思議の感に襲われた。想定外の事故を想定するとはどういうことなのか。
実際に訓練を実施した結果、島嶼部からの避難は、橋を渡るときに逆に原発に近づいてしまうなど、笑えない現実が明るみに出た。主催した佐賀県の古川康知事でさえ「あってはならないことのためにすることのアンビバレンツ(二律背反)」と発言するほどだった。
こうした場合、メディアはどんな問いを発するべきなのか。たとえば、誰かにこの訓練は意味があると思ったかとマイクを向けてみるべきだ。なかには、「こんな恐ろしい想定をするくらいなら、原発を止めてほしい」と答える人がいたかもしれない。放送局は、こうした質問をすることを禁じられていないはずだが、そうした取材は皆無だった。ひたすら避難手順の不備など細部の報告に終始した。
子どもたちは、マスクをして黙々とバスに乗り込んで行った。この光景を、いまも放射能の高い地域に住む福島の子どもたちは、どのように見ただろうか。
長期低線量被曝を子どもたちに強いなければならないわれわれに、原発は国の内外を問わず「不要」と言わない理由が見あたらない。
桜井 均(『Journalism』2012年1月号に掲載)
●原発事故被災地で始動した「ケアのジャーナリズム」
被災者は飼い犬に最後の餌を与えた。そして、急いで車に乗り込み走り去った。犬は餌には目もくれず、一心不乱に車を追いかけてきた。後部座席から向けたカメラに、犬は最後の走りを見せた。車はカーブを切り、犬は視界から消えて行った……。
これはNHKのETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図」(5月15日放送)のラスト・シーンの要約である。犬は飼い主を恨むことなく、きっとどこかで諦め、もと来た道を戻ったに違いない。もちろん、この番組は犬の走りのために作られたのではなかろう。とはいえ、不覚にも涙が出た。彼は、高濃度の放射能の中に置き去りにされたのだから……。
3・11福島第一原発事故以降、私たちはたびたびこうした酷(むご)いシーンを見るようになった。涙もろくなったのは、個人としての弱さだけでなく、人間が構築したと信じてきた社会のもろさをいとも簡単に見せつけられた結果、もっと多重的であるべき感情の調整弁が利かなくなっているからだろう。
水素爆発が相次ぎ、放射能の中に取り残された住民、ことに子どもたちと妊産婦たち、捨てられた犬や牛たちをも含む集団が、「ケア」を必要とする弱者として目の前にあふれる社会が出現した。しかし、速報性と正確さを同時に期待される放送メディアは、放射能に関するかぎり、パニックを回避するための「安心情報」を流し続けた。そのため、もっとも「ケア」が必要な人々に、メディアは遮蔽(しゃへい)幕の役割を果たしたと批判されている。
本稿は、林香里氏の近著『〈オンナ・コドモ〉のジャーナリズム─ケアの倫理とともに』(岩波書店、2011年)から多く示唆をうけている。本書から、「ケアのジャーナリズム」を私なりに要約すれば、現在の主流ジャーナリズムは、19世紀から20世紀にかけてアメリカで培われた近代市民革命と西欧自由主義思想(リベラリズム)の影響をうけて形成された「自由と独立」「多元性」「自律性」という倫理を規範としている。それは「客観主義」「公平性」という表現基準に固執するあまり、「事実」の背後に隠された、事実を生み出す構造=事実の権力性の根源を問うことに失敗している。「ケアのジャーナリズム」は、個人のケア(世話・おせっかい)にとどまらず、「社会的弱者を取り残さずに手を差し伸べる」。それは、主流メディアが、グローバル化・複雑化・細分化した社会にベストアンサーを一斉送信できると過信していることへのオルタナティブとして立ち現れてくる。
そこで、あらためて「ケアのジャーナリズム」の可能性について考えてみた。
◎ジャーナリズムは、客観から「ケア」へ
冒頭で挙げたETV特集は、原発事故発生からわずか4日後、NHKのディレクターたちが、とっさの判断で科学者たちとネットワークを組み、現地に向かった記録だ。事故の直後に、できるだけ多くの正確なデータを採取しておかないと、後の検証ができない。茨城県東海村の臨界事故のとき、初期動作に失敗した経験があるからだという。チームは、はじめは原発に向かって西から東へ、のちに南から北へ、空中の放射線量を測りながら移動した。また、放出された核種を特定するために各所で土壌を採取した。
スタッフは、チェルノブイリ取材の経験から、放射線量にバラつきがあり、ホットスポットが偏在していることを知悉(ちしつ)していた。案の定、計測器の限界を超えるような場所が飛び飛びにあった。調査報道の鉄則として、その有り様を克明に映像に「記録保存」していった。
こうしたしなやかなドキュメンタリーの手法は、取材する側に、自然に被取材者たちを「ケア」する態度をとらせた。原発から20〜30キロ圏の屋内退避指示区域を走っているとき、浪江町の集会所にさしかかった。周辺の放射線量は、計器が振り切れるほど高かった。中には、12人の男 女が身を寄せあい、寝食をともにしていた。そのうちの何人かは、家で飼っているペットを連れては避難所に入れず、ここに滞留していた。
取材班は、ここは屋外も屋内も危険な放射能に覆われていることを告げ、できるだけ早くこの場を出るよう促した。驚いた人々は、30キロ圏を越えた避難所に向かって車を走らせた。カメラはその様子も映していた。つまり、取材者は客観的な記録者にはとどまらず、被取材者とともに避難したのである。
彼らは、取材や調査の過程で得た新事実や知見を、放送を通してではなく、そこで出会った人々に還元した。取材者としては逸脱のように見えるが、社会的弱者に寄り添い、ともに危険を回避しようとするジャーナリストや科学者がいたことに、私は驚き喜んでいる。従来型の取材者なら、「客観性」「公平性」「不偏不党」の原則にとらわれて、ためらったかもしれない。自分の職責以上のことをすることが「おせっかい」なら、もっともふさわしい局面でそれがなされたと言えよう。「ケアのジャーナリズム」の出現である。
これに対して、NHKスペシャル「原発危機第1回 事故はなぜ深刻化したのか」(6月5日)は、メルトダウンが認められ、事故の収束のめどがまったく立たない段階で、関係者がどこでどのような過誤をおかしたかを客観的に整理しようとしたものだ。
この時期の視聴者は、原発の存続について、ニュアンスの差はあれ、いずれの世論調査でも、およそ70%が「脱原発」を支持していた。
しかし、この番組は、大方の関心事であった原発の存廃については踏み込ます、もっぱら情報の整理に徹する姿勢を貫いた。
とはいえ、副次的に、原子力安全委員長などが、この危機的な状況で、どんな発言をするかを聞く機会ともなった。
班目春樹委員長 「3月11日以降のことが全部取り消せるんだったら、もう私は何を捨てても構いません。3月11日以降のことを全部なしにしていただきたい」
だが、このような無責任な発言に対して、制作者は「それはないだろう」と問い返した形跡がない。「安全神話」の形成に、当のメディアが手を貸してこなかったのかと問われかねない場面である。これを、放送の「客観性」「不偏不党」のためだと抗弁すれば、「マスメディアが自ら社会を整序して、現状の社会のあり方を追認し再生産してきた」(前掲書)と言われてもしかたあるまい。
客観報道で手に負えないのが「レベル7」なのである。
◎平準化する東京と東北 難民化を生きる時代
3・11以後、社会的弱者は少数派ではなくなりつつある。
この半世紀をふりかえれば、東京は東北を“バックヤード”にして発展してきた。東京の過密と東北の過疎はトレードオフの関係にあった。そして、こんどの「東日本大震災・福島第一原発事故」で、東京も東北も「東日本」として“平準化”されつつある。その内実はなにか。「東日本」というくくりの中で、人々が“国内難民化”に向かっていることである。東京でしばしば行われる反原発デモは、東京電力への抗議、福島に対する連帯、忍び寄る放射能の恐怖、そしてワーキングプアの不満などをないまぜにしたものと見える。福島の流動化、“難民化”は、東京にも確実に波及しつつある。
福島県相馬郡飯舘村は、典型的なホットスポットとして知られている。住民は、長い時間をかけて里山に手を加え、自然との親密圏の中で暮らしてきた。こうした循環型の環境は、いったん放射性物質に覆われてしまうと、容易に除染することができない。
NHKスペシャル『飯舘村〜人間と放射能の記録〜』(7月23日)は、放射能にさらされた飯舘村の100日間を記録した。事故発生から1カ月後の4月11日、村人は報道を通じてはじめて飯舘村が「計画的避難区域」に指定されたことを知る。しかし、この段階では具体的な補償や避難先の提示はなく、5月いっぱいに順次避難を進めていくというものだった。
取材班は、生きてこの地を立ち去るか、ここに暮らして命を削るかの選択を迫られた住民が、大きなためらいと恨みをのみながら村を捨てる「決断」に立ち会い、最後の一人が立ち去るまでを記録した。家族は、あたかも最後の記念撮影をしてもらうかのように、カメラとマイクの前に立った。
視聴者は、“難民化”しようとする家族の別れの場面に向き合っているような錯覚に陥る。他人事ではないというのが「ケアのジャーナリズム」の第一歩である。
◎ホットスポットで被災者に寄り添う
雪が降る暗い季節からじょじょに草木が芽生える明るい季節に移っていくが、語られる言葉はどんどん暗く重くなっていく。飯舘村菅野典雄村長の言葉、「(子どもを)産んでいいのか悪いのかと聞かれても、ただ高い濃度ですよと言いっぱなしですね」。農家菅野宗夫・千恵子夫婦の嘆き、「畑も山も青くなってくるのに何も食べられない」。農薬を使わない「エコ農産物」の宅配が裏目に出た。「自然を買ってもらおうと思ったが全部だめになった」。
3月12日から5月11日までの2カ月間の積算線量は、推定で28.2ミリシーベルト。いまや飯舘村の農業や酪農は壊滅的な状態に陥った。
ブロッコリーと葉たばこを生産する菅野慎吾さん(冬場は福島第一原発で働いていた)が居間で母と向き合っている。母の徳子さんは息子に、農業を捨て、雇用保険、健康保険がつく職を得て妻子を養えと覚悟を迫る。カメラは、家庭内の深刻な話しあいの場にすえられ、立会人の役割を担い始める。母は迷う息子に、「そういうことだべ!」と強い口調で決断を促した。そう言いながら、ポツリと「原発さえなかったらなぁ」とつぶやき、「原発で前に進まないんだ……、進まないなんてことない、進めばいいんだ」と言い放った。しかし、6月、慎吾さんが農業を捨ててようやく得た職は、結局、東電の下請け会社だった。目の前の車列は、なにごともなかったかのように東電に吸い込まれて行く。“原発難民”という言葉がふと浮かぶ。
村からブランドの飯舘牛が急速に消えていく。鴫原清三さんは、25年かけてつくった血統の母牛(清姫)をどうするか悩んでいた。しかし、東電の説明から、10年は村に戻れないことを悟り、牛を手放す決心をした。別れの日、1頭だけ車に乗りたがらない牛がいた。丹精込めた清姫だった。走り去る車を見送りながら鴫原さんはしきりに涙をぬぐう。カメラは長いあいだ横顔を撮って、けっして正面に回り込まない。鴫原さんの方がやがてカメラに顔を向けて「終わったね」とつぶやく。このように、鴫原さんは、酪農家最後の姿をまるごと取材者に見せ、記録させた。取材者は記録することで「ケア」の役割を果たした。
◎取材者と取材相手がケアし、ケアされる
飯舘村の南部、長泥地区は高濃度の放射能に覆われている。県の放射線健康リスク管理アドバイザー高村昇長崎大学教授が説明会で「雨や台風で流され、速やかに土壌中の放射性物質は流されていく。お子さんたちは、10マイクロシーベルト以下なら問題ない。共生、共に生きるということだ」と発言した。これは、住民のカメラが記録した言葉だが、ここで高村氏が「共生」と言っているのは「放射能との共生」のことである。この地区で暮らすことは、10マイクロシーベルト/時の放射能と共に生きるということだ。しかし、これは文部科学省とタフな交渉を続けてきた福島の父母たちが聞いたら憤激する数値である。
一般人の年間の被曝許容線量は法定で1ミリシーベルト/年である。文科省は、学校を開始するために、許容暫定線量を20ミリ〜1ミリ/年の間と通達した。20ミリを毎時に換算すると3.8マイクロ。10マイクロはそれをはるかに超える。
村の人たちは、自分たちのあずかり知らぬところで撒かれた放射能と「共生」しなさいと宣託されたようなものだ。
長泥地区の鴫原良友区長宅に、原子力関係のOBが訪ねてきて、放射能を10分の1くらいまで除染できると告げる。しかし、除染はうまくいかず、裏庭に大量の汚染ゴミが積まれる。OBは、飯舘村だけでも将来何百万トンという汚染ゴミが出るので、この地区の谷を一つ産廃場にしないかと持ちかける。取材班はこのとき区長の側に立って記録している。良友区長は、この申し出を「汚染」のたらい回しとみて断る。彼は地区の人々を全員見送ったのち、自らも村を後にした。いま村を訪れるのは、交代で残留放射能を測定する住民だけである。
以上は、難民化するかもしれない人々が、テレビの前で見せた出来事の記録である。ケアのジャーナリズムには、村に意識を残しつつ流浪していく人々の行くすえを見届け、村の再生の手立てを、社会から調達してくる仕事が割り振られた。
「ケアのジャーナリズム」は、ジャーナリスト自身が取材相手によって「ケア」されることも大事な要件としている。
桜井均(『ジャーナリズム』2011年9月号に掲載)
●ヒロシマ・ナガサキ・ミナマタ、そしてフクシマ?
《土地の記憶》
広島・長崎・水俣は、なにかに置き換えることができない出来事が起こった場所として世界に知られ、記憶されています。だから、私たちもヒロシマ・ナガサキ・ミナマタとカタカナで書きます。それに、こんどはフクシマが加わろうとしています。私たちは、法外な出来事を土地の名前で記憶する習慣があります。アウシュビッツは大量虐殺の、チェルノブイリは未曾有の原発事故の現場として記憶されています。それでは、フクシマは私たちにどんな記憶を残すことになるのでしょうか。
いや、まだ事故が収束していないのに、記憶の話をするのは不謹慎です。フクシマという記号が先走って、人が暮らす福島が忘れられてはいけない。そもそも、こんどのことは、福島だけではなく、日本中の、あるいは世界中の原子力発電に潜在する問題だからです。
私たち人間は、森や山や川や海や空気などの寛大さをあてにして、乱暴狼藉のかぎりを尽くし、その挙句の果てに、「もうお前ら人間どもは赦さんぞ」とドヤされているような存在なのです。人間がふりまいた毒のために、自然はずっと前から悲鳴を上げていました。それなのに、一向に耳を貸そうとしなかった人間どもの頭上に、いま怒りの大槌が振り降ろされようとしています。自然の中には、海・山・川・空気のほかに、牛・馬・鶏・犬・猫…、穀物・野菜・木・花…などが生きていて、人間もその仲間のはずだったのに、余分な猛毒をこしらえて自然界に撒き散らしてしまいました。だから、もう赦されない段階にきているような気がしていました。
このように悲しみが怒りに転じたとき、猛毒は人間だけを襲うのではなく、責任のないほかの生き物たちすべてを巻き添えにしてしまいました。世界が、終わりのない汚染の過程に入っているというのに、私たち人間は、ただ土地の名をつぶやくだけでいいのでしょうか。
いま、原爆のこと、水俣病のこと、そして原発のことを考えています。
原爆の放射線や、水俣の工場排水に含まれていた有機水銀は、生体に致命的な影響を及ぼし、母の胎盤を貫き、胎児にまで届いていました。そういう手痛い経験を私たちはしてきたはずなのに、なぜ、同じようなことを繰り返してしまったのでしょうか。
《ヒロシマ》
詩人原民喜は、原爆を受けた直後に「パッと世界から剥ぎとられ、天から降ってきたように感じる」と書きました。生きのびた者の使命として、彼は被爆直後の世界だけを書きつづけました。原爆のほかは一行たりとも書かなかった。それでも、アメリカのトルーマン大統が朝鮮戦争で原爆の使用をほのめかしたとき、詩人は絶望した。言葉の無力を知って、鉄路にわが身を投げ捨てたのです。人間は忘れることで生き延びようとしますが、同時に、忘れ去られることで生きる希望を失ってしまうことがあります。被爆者にはこうした虚無がいつもつきまとってきました。
もう一度、初めに戻って考えてみます。なぜ、原爆が落されたのかではなく、なぜ原爆投下は避けられなかったのか。出来事の必然を探るのは、ある意味で簡単です。それは説明だからです。しかし、出来事を未然に防げなかった理由を問うのは大変です。なぜなら、失敗の責任を明らかにしなければ、一歩も先に進めないからです。この作業には痛みがともないます。
あらためて広島の原爆は防ぐことはできなかったのかと問うてみます。アメリカは、きまって自国兵士の損耗を最小限に抑えるために原爆を投下したと説明します。しかし、日本の継戦能力はとっくになくなっていました。それなのに、なぜ2発も、しかも西日本の都市に落したのか。どうみても日本の戦争指導者たちは東京に集中していたわけですから、少なくとも長崎については説明がつきません。もしも、ソ連軍の満州侵攻に対する牽制のためだったいうなら、アメリカは戦後の利益のために原爆を使ったことになり、政治目的で非戦闘員を大量に殺したことになります。これは、どうみてもジュネーブ条約に違反し、「人道に対する罪」を構成しています。アメリカの戦後の正義を信じる理由はどこにもなくなります。
翻って、日本の為政者たちは、なぜ原爆投下を防ぐことができなかったのでしょうか。そのヒントを昭和天皇の「終戦の詔勅」に読みとることができます。「敵は新たに残虐な爆弾(原爆)を使用して、しきりに無辜の民までも殺傷しており、惨澹たる被害がどこまで及ぶのか全く予測できない。然るに、まだ戦争を継続するならば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも破滅しかねないであろう」。ポツダム宣言を受諾する理由として、敵の残忍さから人類の文明の破壊を避けるためであると述べられています。ここには、アメリカの無条件降伏主義と日本の玉砕主義という2つの野蛮がぶつかり合ったという歴史認識は微塵もありません。「絶え難きを絶え、忍び難きを忍び」という有名な文句は、「国体護持」のためにポツダム宣言の受諾もやむなし、という結論の前置きにほかなりません。はたして、「終戦の詔勅」が、民草を救うためであったのか、国体を護持するためであったのか、多言を要しないでしょう。戦争の終結を考えるべきだったのは、1年前の1944年、サイパンが陥落したときだったのではないか。「遅すぎた聖断」という成句があるほどです。
そして、もっとアイロニカルなのは、原爆の投下が戦争犠牲者を減らすために使われたという言い草で、これについては、日米の戦争指導者のあいだに見解の一致があったということになります。「原爆の平和利用」とは悪い冗談です。
もしかしたら、こういうあいまいさの延長上に、日本は二度も核攻撃を受けながら、アメリカの核の傘に入ってしまうという“異常行動”をとったということなのかもしれません。
《ナガサキ》
原爆を投下した将兵たちは、戦後何年たっても罪の意識を持つことはなかったと言われます。爆撃機エノラ・ゲイの機長ポール・チベッツは、数え切れないほど受けたインタビューで、それと同じ数だけ「なにも後悔していない」という同じ答えを繰り返しています。その理由は、高高度からの無差別爆撃は、人間のスケールをはるかに超えていたために、爆心地の惨状(爆風、業火、放射能による人間破壊)の痛みを体感できないからだと説明されます。しかし、それだけでもなさそうです。じつは、広島、長崎への原爆投下クルーの何人かが、爆撃からおよそ1カ月後の長崎に入り(広島は破壊がひどくて着陸できなかった)、自分たちの破壊の跡をつぶさに見聞して歩いていたということが分かりました。彼らが持ち帰った写真には、長崎医大病院が映っていますし、その病院の窓から一面の原子野を撮ったと思われるショットも含まれています。彼らは病院の中に足を踏み入れていたはずです。しかし、公開された写真には、被爆者の姿はまったく映っていません。夢遊病者でもないかぎり、彼らに良心の痛みが走ったはずですが、反省や謝罪の言葉を口にした者はいません。精神を維持するために特別の機制が働いているとしか思えません。この“感情マヒ”の前に私たちはたじろがざるをえません。
しかし、長崎の一行に加わらなかった一人の元搭乗員が、戦後になって原爆投下について深く反省し、「世界に謝罪したい」と言い出したのです。気象観測士だったクロード・イーザリーは、自分が天気良好のゴーサインを出したことを悔い、自らを責めつづけました。しかし、軍当局は彼を“狂人”として陸軍病院に収監してしまいました。これを聞いたユダヤ人哲学者ギュンター・アンダースは、イーザリーに手紙を書き、「きみは、世界中の人間がアイヒマンではないことを証明してくれた唯一の人間だ」と記しました。アイヒマンは、ナチス・ドイツの将校で、ユダヤ人を絶滅収容所に鉄道輸送するでしたが、戦後エルサレムで行われた裁判で、「自分は組織の歯車にすぎなかった」と主張した人物です。
この話には、奇妙な後日談がついています。1958年、ギュンター・アンダースは惨劇の地広島、長崎を訪れ、多くの被爆者にインタビューをしました。彼は、被害者たちが原爆をあたかも突然襲ってきた津波(天災)のように受けとめていることに驚いています。同じ年、「広島復興大博覧会」が催され、皮肉なことに「原子力の平和利用」に関する展示が、人類の多年の夢として広島市民に受け入れられました。原爆の圧倒的は破壊力と原発のエネルギー利用が戦後15年目に分離されたのです。それから10年たってアメリカは、『広島・長崎
1945年8月』という被爆直後の映像を日本に返還してきました。そこに映し出されている人々は、みな一様に魂を抜かれたような眼をしてカメラを眺めています。彼らは、原爆の投下が天皇の「聖断」の大きなきっかけとなったとも知らず、われとわが身に降りかかったことをまったく理解できないでいるように見えます。被爆者に対する徹底した無関心と、被爆者自身の長い沈黙の原点はここにあることがわかりました。イーザリーの懺悔、アイヒマンの麻痺、そして、被爆者の沈黙の意味を同時に考えなければなりません。
原爆にはもう一つのあいまいさがつきまといます。原爆と原発の境界線をめぐる議論です。原爆投下から何日かして、身内の消息を尋ねたり、被災者の救援のために、よその町から爆心地に入った人々は、その後、障害がでても被爆者として認定されません。政府は、こうした微妙な領域を排除したために、「原爆」と「原発」を結びつける思考回路をも切断してしまったのです。
《ミナマタ》
水俣病患者も長いあいだ放置され、沈黙に閉ざされてきました。こんどのことで、水俣を強く意識しました。
新日本窒素肥料(現在のチッソ)水俣工場は、プラスティック加工に必要な可塑剤を製造する過程で出た有機水銀を水俣湾にたれ流していました。その結果、湾内の魚を食べていた漁師の家族から、大量の中毒性中枢神経疾患の患者が出ました。魚を食べた猫も痙攣しながら死んでいきました。
熊本大学医学部は当初より有機水銀説を唱えていましたが、東京を中心とする大学からさまざまな異説が出され、その反証のために多くの時間を空費しました。昔も今も世に「御用学者」は絶えないのです。しかし、不知火海一帯の漁民たちは、魚介類が水俣病を媒介していることを直感し、1959年10月、水俣工場の化学実験棟に乱入、器具類を破壊しました。
この時点で、排水の停止と漁獲禁止が行われていれば被害の拡大は食い止められたはずですが、厚生省は食品衛生調査会から有機水銀説を答申されながらそれを無視し、水俣食中毒特別部会を解散させてしまいました。その裏では、重化学工業を推進する通産省の意向が強く働いていたと言われています。当時、水俣工場は、可塑剤の生産シェア80%以上を占めていたために、国策によって保護されたのです。
工場排水を海に流すことになんの抵抗もない時代でした。自然は、「社会的共通資本(経済学者・宇沢弘文の用語)」の一部であるという考え方がありません。それは企業活動にとって考慮すべき対象ですらありませんでした。ですから、原因が工場排水であることが分かっていても、それをまず止めるという思想がなかったのです。国策企業は、汚染除去設備に投資することなど考えの外でした。そして、わずかな見舞金を積めば、貧しい漁民は黙るだろうという計算も働いていました。自分たちの実験で有機水銀の害毒が分かっていても、それを隠し続ける企業の体質を色濃く持っていました。
国家の庇護のもとに、御用学者が跋扈し、事実は恒常的に隠ぺいされ、なによりも被害者の人権無視、この体質は見事に現在に伝承されています。
NHKのドキュメンタリー『日本の素顔 奇病のかげに』(1959・11)のラストは、胎児性水俣病患者の幼女(当時3歳)が転ぶシーンでした。振り向いてカメラを見つめる目は視聴者に強い印象を与えました。その坂本しのぶさんは、今日までずっと水俣の「悪」を問い続けてきましたが、その道のりはけっして平坦ではありませんでした。いくたの裁判を経て、彼女は、いま未認定患者の問題にもまっすぐ向き合っています。
《破局の後に》
福島第一原発の事故では、目に見えない放射性ヨウ素が空気中に、放射性セシウムが大地と川と海に到達し大量に沈着しています。マス・メディアは、事故後1ヶ月ほど(3月、4月)は、毎日のように「ただちに人体に影響はありません」という安心情報を流していましたが、メルトダウン、メルとスルーがいよいよ隠せなくなると、さすがにこのフレーズは使わなくなりました。そのかわり、7月に入ると、政府は肉牛の汚染を見つけると、「ただちに全頭検査」「ただちに全頭出荷停止」などというセリフを吐きはじめました。野山の生き物たちは「ただちに汚染されていた」というわけですが、なぜ人間だけは例外だったといえるのでしょうか。ほんとうは“No
place to hide”(隠れるところなし)なのに。私たちは、生き物の立ち入り禁止区域(ZONE)を自らの手でつくってしまったのです。
飯舘村で里山保護の支援をしてきたグループの一人が、去年の里山の写真を見せながら、「みなさん今年もこんな風景を見ることができますよ。でも恐ろしいことに、里山にはセシウムがすっぽり覆いかぶさっています。長い歳月をかけて育んだ複雑な地形に、放射能は絡まって容易なことでは抜けません。100年かけて森をとり戻す計画を立てなければ」と語っていました。私たちは、こういう破局的な経験をしているのです。それでも、これから100年もの時間をかけて、ZONEから抜け出さなければなりません。
大江健三郎は『ヒロシマ・ノート』の中で書いています、放射能を浴びたオオイヌノフグリの細胞を顕微鏡で覗いたとき、被爆者の傷ついた肉体を連想し嘔気をもよおしたと。「しかし、眼のまえの焦土に青草が芽生えればそれを信じる、そして新しく異常があらわれるまで絶望的な想像力を停止する。それより他に、限界状況に屈服しないで日常生活の平衡をたもつ生き方はない」と続けています。ですから、私たちは、ただれ歪んだ肉体の表面をじっと見つめると同時に、体の奥深くで、細胞が緩慢にしかし確実に恐ろしい変化を起こしていることを、しっかり想像しなければならなりません。要するに、原爆と原発事故が教えることは、放射能と人間は共存できないという一事です。
広島に原爆が落とされて66年目の8月6日、若者たちの呼び掛けによる反原発のデモに参加しながら私は考えました。原爆の被爆者たちがどれほど苦しみと沈黙の中で、放射能の脅威に向き合ってきたことか、被爆二世たちがどれほど見えざる放射能の恐怖に苛まれてきたことか、いま福島の子供たち、妊産婦たちがどれほど同じ恐怖に直面していることか…。デモの表面には原爆と原発の関係は出てこなかったのですが、どこかでつながっていると、そこにいた皆が感じていたように思います。
今年の原水爆禁止世界大会は、福島市で開かれました。その少し前、郡山である年配の女性が訴えていました、「私たちは、いまここに留まり被曝しています。この地から、世界の原発のすべてを廃炉にしたい」と。この希望が世界に届いたなら、福島はフクシマとして記憶されるでしょう。原発事故の現場としてだけではなく、全世界の原発を廃炉にしろと宣言した最初の土地として…。
2011年8月6日 桜井 均
(日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)のオンラインマガジン『fotgazet(フォトガゼット)』(http://fotgazet.com/)に投稿したもの)
●なぜ、マスメディアは「脱原発」と言えないのか?
福島第一原発事故の直後、私はアメリカのメディアにかかわる知人から、「なぜ日本人は二度も原爆を受けながら、アメリカからもらった原発技術で日本列島を覆ってしまったのか」と問われた。私は即座に「死の灰」を浴びたことと深い関係があると答えた。
1954年、日本漁船・第五福竜丸がビキニ環礁でアメリカの水爆実験に遭遇。乗組員23人が被曝し、うち1人が死亡した。同年、水爆で生まれた怪獣が暴れ回る映画「ゴジラ」が制作された。全国に原水爆禁止運動と反米感情が巻き起こると、アメリカは原子力の平和利用を掲げて、1957年、東海村に「原子の火」を“贈与”。1963年には原子力で動く正義のロボットが活躍する「鉄腕アトム」がアニメ化された。これ以降、日本の子どもの中に「ゴジラ=原爆・戦争」と「鉄腕アトム=原発・平和」が同居するようになった。
こうした心象を、評論家加藤周一は、「比喩的に言えば、原子爆弾とは制御機構の故障した(原子力)発電所のようなものである」(1999年10月20日付朝日新聞夕刊「夕陽妄語」)と評し、原爆=戦争、原発=平和という意味では遠いが、核分裂の連鎖反応という意味では極めて近い「遠くて近きもの」と位置づけ、「東海村に事故がおこれば、『ヒロシマ』を思い出すのが当然であろう」と指摘した。その東海村JCO臨界事故に続いて、福島第一原発で「レベル7」の惨事が起きたのだ。
しかし、マスメディアは、パニックの第一発生源にはなりたくないのか放射能の値を示すときには判で押したように「ただちに人体に影響が出る数値ではない」とつけ加える。
しかし、全電源喪失で、原発本体の危機的状況が延々と続き、「安心情報」に耳を傾ける者はほとんどいなくなった。ことに、高濃度の放射性物質を含んだ水で作業員が被曝し、大気中の放射線量の上昇、周辺の農作物や土壌、水質の放射能汚染が拡がり、炉心から出たとされる放射性物質を含む水が大量に海に漏出するに及んで、人々の不安と怒りはピークに達した。
テレビからは、派手なコマーシャルが消え、タレント、スポーツ選手の「日本は一つ」、「がんばれニッポン」の掛け声が日増しに大きくなってきた。こういう善意のオンパレードには注意を要する。「助けて」と叫ぶ人に「がんばれ」と言う。これは残酷なことではないのか。しかも、ドサクサまぎれの「がんばれニッポン」は、戦時中の「一億一心」を連想させる。
海外の目はもっとシビアである。この難局を乗り越え、地震列島にもっと原発を作ろうという国に、「がんばれニッポン」と応援する国はめっきり減っている。
◎メディアは仲介に目覚めるか
悲惨なのは、30キロ圏で屋内退避させられた住民たちだ。圏内の市町村長からは、「国の責任において」避難指示が出されることを望む悲鳴のような声が上がったが、それへの政府の対応は「自主的な移転を求める」という冷淡なものだった。将来の責任追及に対する予防線ではないのかとの疑念を抱かせる。
そうしたなか注目すべき番組があった。NHK教育テレビのETV特集(4月3日)は、評論家吉岡忍氏が、原発から27キロの浪江町赤宇木の集会所で屋内退避指示のまま身動きならない人々を取材し、あわせて三春町の住職で芥川賞作家の玄侑宗久氏と原発災害について語りあった。
この番組は、高レベルの放射能の中に剥き出しのまま放置された人々がそこを出て避難するまでを記録した。原発事故が地域社会を根こそぎにし、原発と人間の間には共通するスケールがないことを明らかにした。安全情報ばかりを流すニュースとは、取材思想が根本的に違っている。
教育テレビの健闘をもう一つ。「福祉ネットワーク」は、時折、教育波から総合波に切り替え、被災地の障害者施設と結び、生放送を継続した。評論家の内橋克人氏は、こうしたときこそ、災害弱者を基本にすえて日本社会再生の方向をつかんでほしいと訴えた。この発言の先には、原発依存の社会を根本的に問い直す、「脱原発」社会が見通されている。事態が刻々悪化するなかで、メディアが自らの機能を、被災住民と行政の「仲介」に差し向けた例である。仲介は、英語でまさにメディアである。
福島第一原発の事故は海外に大きな衝撃を与えている。ドイツでは大規模なデモが起こり、脱原発を掲げる「緑の党」の支持者が増加している。
それにしても、全国に点在する国内の原発所在地で連日のように電力会社に対する抗議行動が起こっているが、それらを紹介するニュースがほとんどないのはなぜだろう。
たとえば、3月27日の午後から夜にかけて、東京・銀座で東電本店に対するデモが行われ、主催者発表で1000人以上が参加し、口々に「脱原発」を訴えた。しかし、取り上げたメディアは少なかった。ただ、海外メディアが報じたことをニュースにした程度だった。
NHKは「海外ネットワーク」で、日本の原発事故に対する米独の反応を自前の取材で伝えた。アメリカの原発に隣接する住民の不安や、ドイツの脱原発の決断など日本でこそ考えなければならない内容だ。順番が逆でも国内メディアは、社会的な動きとして「脱原発」の動きを取材せざるをえないところに来ている。それでも取材しないとなれば、「脱原発」を言い出せないよほどの事情があると疑われても仕方がない。
目前の危機に対処しているときに、先のことを考えるのは不謹慎だという理屈は、放射能災害に関しては通用しない。日本のマスメディアは、今こそ、各地の「脱原発」の動きを積極的に紹介し、政府が現下の危機を克服する後押しの役割を果たす時である。
桜井均(『ジャーナリズム』2011年5月号に掲載)
●福島原発事故に思う4“浮かぶ原発”にも注目を 前田哲男(ジャーナリスト)2011年4月13日
[長崎新聞4月13日付]
米海軍の原子力空母ジョージ・ワシントン(GW、約10万トン、D・A・ラウスマン艦長ら3300人乗り組み)が12日、佐世保に寄港した。5、6日にも佐世保を訪れたばかりで、米原子力空母が1カ月間に2度寄港するのは初めて。
GWは、米海軍横須賀基地(神奈川県横須賀市)で定期メンテナンス作業中の先月21日、同基地を出航。福島第1原発事故に伴う退避が目的とみられる。
外務省から佐世保市に入った連絡では、今回の寄港目的は「休養・補給・維持」。同基地によると、前回と同じ作業員交代や補給に加え、12、13日に1日当たり約1300人の乗組員の上陸、自由行動を許可している。14日出港予定。
GWは12日早朝入港、午前7時26分港中央部に停泊。クレーン船を横付けしての物資搬入や、上陸乗組員の移送作業に入った。文部科学省の放射線測定結果は「平常の値と同様」だった。米原子力空母ジョージ・ワシントンが12日午前8時まえ、佐世保に入港した。「人員の交代と部品・器材の補給」および「乗組員の休養」が目的で14日出港するという。(引用終わり)
ジョージ・ワシントンは、2008年10月以降母港としている横須賀港12号バースでで「3・11震災」に遭遇した。当時、原子炉部分のメインテナンス(定期修理)をおこなっていたのだが、3月21日、本国から派遣された作業要員550人中450人を乗せたまま緊急出航、横須賀から退避した。その後、4月5日に佐世保に入港、300人を下船させ翌日出港し西日本近海にとどまって洋上作業していたらしい。
「メインテナンス」が完了したのかどうかわからない。作業中断といい、2度にわたる佐世保寄港といい、とうぶん「横須賀を避ることにした」と見るのが正解のようだ。「トモダチ作戦」に加わった原子力空母ロナルド・レーガンもまた、任務終了後、19日に佐世保に寄港と伝えられることも、「ヨコスカ一時放棄」の見方を裏づける。佐世保が、しばらく米原子力艦の臨時母港になるのかもしれない。
震災が、原子力空母ジョージ・ワシントンにショッキングなできごとであったのはまちがいない。4月6日発行の「非核市民宣言運動ヨコスカ」機関誌『たより』215号に、その日前後のくわしい動きと分析が掲載されている。そこに米海軍准機関紙『星条旗新聞』(STARS
AND STRIPES)の記事が紹介されているので一部引用する。
エリック・スラビン 2011年3月11日 横須賀海軍基地発。
空母ジョージ・ワシントンに乗っていた乗組員は、地震の最初の揺れは今までと同じようだったので、ほとんど気にしなかった。その後の数分間揺れが強くなったとき、何か途方もないことが起こっていることが分かった。
「実際に航海中か演習中のような感じだった」ビル・メイソン下士官(ペンシルベニア州ダマスカス出身)は述べた。メイソンは大きな揺れの後、直ぐに水位線をチェックした。水位は6フィート(183センチ)下がっていたという。
ジョージ・ワシントンは長さ1092フィート(333メートル)で、重さ6万トンの構造用鋼で造られているが、揺れは非常に強くて、船を埠頭岸壁から離すほどだった、と乗組員は語る。
「まるでひとつの街がぐるぐる回っているようだった」と語るのは当時乗船していたデヴィン・プロクター3等海曹だ。ユタ州出身のプロクターはワサッチ断層線に沿ったところに住んでおり、地震には慣れているというが、「こんなのは初めてだ」という。(以下略)
すこし誇張されているように感じられるが、震災後、米海軍司令部が横須賀と厚着基地の軍人家族と軍属に自主避難勧告を発令したことと考え合わせると、相当に動揺したようだ。以上から、突然の出港と2度にわたる佐世保寄港が、地震とそれにつづく放射能襲来をおそれてのことだったのは疑いようない。
しかし、今回考えたいのは、ジョージ・ワシントンの「浮かぶ原発」としての側面である。
ジョージ・ワシントンには、熱出力60万キロワットの原子炉2基、発電炉に換算すると40万キロワット相当の「動力プラント」(nuclear
plant)がそなわっている。
福島1号炉とほぼおなじ規模になる。原理も仕組みも同一で、両者に違いがあるとすれば、核分裂反応で発生した熱で水を水蒸気に変えタービン発電機を回す(原発)のと、おなじエネルギーでスクリューを回転させる(原子力空母・潜水艦)ことの差でしかない。
そもそも、「原子動力プラント」は、原発よりさきに軍艦の推進用に開発されたものなのだ。原発はそれを陸上に移しかえたものにすぎない。原理も構造もおなじものである。すこし「原子動力プラント」の歴史をふりかえってみる。
2次大戦中、原爆製造を目的に動きだした「マンハッタン計画」のなかに、少数ながら、この新エネルギーを潜水艦の推進力に活用できたら、と考える科学者がいた。そうすれば酸素なしのエンジンで潜航でき無限の航続力が得られる・・・
戦時中、このアイデアに優先権があたえられなかったので、研究は停止していた。だが戦後、ハイマン・リッコーバーという野心的な海軍大佐が、原子力推進による潜水艦実現に挑戦し、海軍のプロジェクトとなる。
ビキニ環礁で戦後最初の核爆発実験が実施された1946年夏、海軍は、世界最大の総合電機メーカーゼネラル・エレクトリック(G・E)とウェスティングハウス社(WH)とのあいだに、船舶用原子炉およびタービン、動力変換装置の設計・開発契約をむすんだ。
そして生まれたのが最初の原子力潜水艦ノーチラスである。1952年の起工式にトルーマン大統領が出席し、1954年の進水式ではアイゼンハワー大統領夫人が支え綱を切った。
1955年1月、ノーチラスは史上初めての原子力を使っての運転に成功する。最初の航海でテムズ川を渡ったときに発した「本艦、原子力にて航行中(Underway
on nuclear power)」の信号は有名である。以後、米海軍の潜水艦はこの原子炉を原型にして、スケート型〜スキップジャック型〜スレッシャー型と発展していき、こんにちのオハイオ型・シーウルフ型へといたる。
いっぽうで、同時期、あらたな動力を発電用に利用する計画も並行してはじめられた。スクリューを回すのも電気をつくるのもおなじことだから、自然の成り行きといえる。G・E、WHとも数がかぎられた原潜だけで満足するはずなかった。
1953年12月8日、アイゼンハワー大統領は国連総会で「原子力を平和へ」(Atomic
for peace)と題する演説をおこない、原子エネルギーを農業、医学、電力など平和用途にもちいる提案をした。これがきっかけとなって軍事的利用への転用防止を目的とするIAEA(国際原子力機関)が1957年設立された。
同時期、マンハッタン計画に共同参画したイギリスも、潜水艦建造とともに「コールダーホール型原子炉」の開発と国際的な売りこみに乗りだす。
ちなみに、日本の原子力開発計画は、アイゼンハワー演説翌年の1954年3月、国会で原子炉建造予算2億3500万円が可決されたことにはじまった(改進党・中曽根康弘議員ら提案)。
1957年「日本原子力発電」設立、1966年、コールダーホール型原子炉設置(東海発電所1号機)、1970年、G・E社原子炉導入(敦賀発電所1号機)という経過をたどっている。
現在、日本の発電用原子炉の半数は、原潜モデルの加圧水型原子炉である。
このような“nuclear plant”開発の歴史を見れば、フクシマとジョージ・ワシントンが兄弟(片方は船だから姉弟か)の間柄にあることがわかる。とすれば、原子力空母が原発事故の報に、いちはやく母港から遁走した理由もよく理解できる。津波、浸水、電源喪失、メルトダウン・・・の再現をおそれたのだろう。
“STARS AND STRIPES”のややおげさな書き方からもそれがつたわってくる。陸上の原子炉にくらべて小さく設計されている分だけ船舶用原子炉は“多重防御”にゆとりがないのはあきらかだ。
そこで注目しなければならないのは、これら“浮かぶ原発”が、日本の港に常駐ないし日常的に出入りしているという事実である。
原子力空母だけでない。もっと多くの原子力潜水艦が、横須賀、佐世保、沖縄ホワイトビーチに寄港している。原潜は、1964年、佐世保発寄港以来、毎年この3港に入港を繰りかえしており、最近数年間は年間30回前後にもおよぶ。
そのたびに東京湾などに“浮かぶ原発”が臨時設置されていることになる。「東京に原発を」は、すでに現実のものなのである。住民の同意も安全審査もなく。
「原子力発電の安全性」が問われるとき、この問題を外においてはならない。関東大震災が起こったら、関東地方には原発は1基もないけれども、もし、横須賀にジョージ・ワシントンが在泊し、かつ原潜が1隻寄港していたら、東京湾に3基の原子炉が存在することになる。
2009年の実績によれば、「横須賀基地への米原子力艦船寄港の延べ日数は324日」(しんぶん赤旗2010年1月12日付)にもなので、「最小でも1基」の福島1号機が「そこにある」可能性が高い。万一、それと「3・11」が遭遇したら・・・。そのときは「退避」のいとまもないだろう。
横須賀停泊中の原子力潜水艦が原子炉事故を起こしたら、という想定の研究リポートが1988年に提出されている。米環境研究所のジャクソン・デイビス博士がまとめた「デイビス・リポート」。そこでは、停泊中の原潜で原子炉事故が起き、放射能が外部に漏れて首都県全体に被害がおよんだ場合、がんなどで7万7000人に死者が出ると推測されている。東京湾は死の海となる。
地震がなくても、原子力艦船はよく事故を起こす。
わたしが佐世保で放送記者をしていた1960年代の8年間だけで、原潜スレッシャーとスコーピオンが潜航中沈没した。旧ソ連からはさらに多くの沈没やメルトダウン事故が報じられた。“チェルノブイリ的事態”は、海のほうが多いかもしれない。深海やソ連圏北極海などであったため人目につかなかっただけだ。
原潜在港中の「放射能漏れ」もひんぱんにおきた。日本の3港はすべて「異常放射能事件」を経験している。1968年5月7日付の西日本新聞は、その最初の例である。
「放射能を調査している佐世保会場保安部のM802調査船は、佐世保港に停泊中のソードフィッシュ号の周辺海域で放射能測定中、午前10時7分、平常値の10〜20倍にあたる異常地を検出した」と報じた。
米側は、「ソードフィッシュは、報道されて異常放射能の原因となるようなことは何もしていない」と否定し、真相はうやむやのうちに終わった。だが、その後、横須賀でもホワイトビーチでも同様な異常値が検出されているので、原潜による放射能漏れであったとほぼ断定できる。
最近のケースでは、2006年9月のつぎの例(東京新聞06年9月28日)。
文部科学省は27日、米国の原子力潜水艦「ホノルル」が今月14日に神奈川県横須賀市の米海軍横須賀基地を出港した際の海水から、自然界には存在しない放射性物質のコバルト58とコバルト60がごく微量検出されたと発表した。
いずれも、停泊中に原子炉冷却水を港内に放出したためと推測される。日米間の覚書によって禁止されている行為である。本来ならば、航泊日誌や原子炉運転日誌の提出、点検がなされるべきだった。しかし、このときも政府(安倍政権)は徹底した原因究明をおこなわず、忘れ去られるのにまかせてしまった。
今後もそのようなことが繰りかえされてはならない。
菅首相は12日の記者会見で、3・11以後の原子力政策について「原子力の安全性を求める」ことを強調した。ならば、そのなかに「米原子力艦船の安全性監視」もふくめていただきたい。このさい「浮かぶ原発」「動く原子炉」にも注目しよう。
前田哲男(2011年4月13日)
●福島原発事故に思う3 前田哲男(ジャーナリスト)2011年4月11日
ルポライターの明石昇二郎さんが「ストロンチウム90測定値公表を急げ」という一文を東京新聞に書いている(4月8日夕刊)。
・・・現時点で気になるのは、フクシマから放出され続けている放射性物質で、放射性ヨウ素やセシウム、プルトニウムによる汚染のことは報道されるようになったものの、被曝した人の骨にたまるやっかいな「ストロンチウム90」の情報がまったく公表されていないことだ。それに加えて、ウランのデータも明らかにされていない。
特にこのストロンチウム90は、骨の中にあるカルシウムと置き換わって体内に蓄積し、強い放射線(ベータ線)を長い間出し続ける。大変危険なこの放射性物質の半減期は約二十八年。フクシマからこれが放出され、環境ないに拡散しつつあると見てまず間違いない。ストロンチウム90の測定とその公表は急務である。(以下略)
大事な指摘だ。わたしもストロンチウム90のことが気になっていた。なぜ原子力保安院は、ヨウ素131とセシウム137だけしか発表しないのか? いちばん怖いのは、ストロン
チウム90やプルトニウム239であるのに・・・
7日付のこの欄で引用した、三宅泰雄さんの『死の灰と闘う科学者』に、焼津に帰港した「第5福竜丸」と乗組員から検出された放射性物質を分析した経過がつづられている。核種の特定は被曝治療の手がかりになるからである。東京大学の木村健二郎教授が、イオン交換樹脂による分離技術で核種割りだしにあたった。
ビキニ灰の分析は、3月18日ごろからはじめられた(注:福竜丸の帰港は14日、読売のスクープは16日付)。分析をはじめて2日後には、はやくも4種類の核分裂物質(主として希土類元素)が検出された。
1週間のうちには、15種、3月の末には17種の放射性核種がみつかった。けっきょく、全体で検出された核種は27種になった。その大部分は核分裂で生じた核種であった。
そのなかにストロンチウム90があった。結果はすぐに乗組員が入院している東大病院につたえられた。体内から溶かしだすEDTAという薬剤の使用が決定された。
(病院の)都築正男博士は、木村・南研究室の迅速な分析ぶりを賞賛し、「短時間によくこれだけの核種の分析ができたものだ。放射性ストロンチウムなどの存在が明らかになったことは、われわれの治療方針を決めるうえにも非常に重要なことである」と語った。
私(三宅)の計算では、1954年3月5月にかけて海水中に放出した放射性物質のうち放射性ストロンチウムだけで、3メガキュリー(メガキュリーは100万キュリーのこと)にも達していた。これは原子爆弾の30メガトン分の爆発から出るものにひとしい。ヒロシマ型原爆なら、その1500発分にあたる量である。
原爆も原発も、ウラン原子の分裂反応から熱を取りだす点においてかわりはない。ちがいは、瞬間に反応させる(爆発)か、制御しつつ反応させてお湯を沸かし蒸気タービンを回転させる(発電)にあるだけだ。おなじ分裂生成物が生みだされる。明治の人は、「徴兵
懲役一字のちがい、腰にサーベル鉄ぐさり」といったものだが、似たようなものである。
それはともかく、明石さんが書いているように、ストロンチウム90は骨に沈着して造血機能を阻害し、骨ガンや白血病を引き起こす要因となる。
わたしは1970年代、ビキニ水爆実験で第5福竜丸とともに被曝したマーシャル諸島住民のその後を取材したことがあるが、被曝後ながい時間をおいて島人に後遺的障害をもたらしたのは、セシウム137とともにストロンチウム90だった。多くの人がガンや白血病に苦しんでいた。
また、そのころ「もうビキニは安全になった」との米ジョンソン大統領の「安全宣言」を受けて帰島した旧住民(かれらは核実験時代島を追われていたので被曝からは免れていた)が、1978年、「ビキニ再閉鎖」(いまもつづいている)によってふたたび島を立ち退くことになったのも、帰島後、体内に危険な量のセシウム137やストロンチウム90を取りこんでいる事実がわかったからである。
スリーマイル島原発事故のさいも、危惧された事態にストロンチウム90の放出があった。
マーク・スティーブンス著『スリーマイル・パニック』に以下の記述がある。最悪の事態――爆発をともなうメルトダウン――が想定されていた初期段階のことである。(淵脇耕一訳、社会思想社1981年)
メルトダウンの場合には、核爆発による巨大なきのこ雲が立ち昇るということはまずありえない。爆発による被害があるとしても、外周の小規模な被害だけだろう。しかし原発内に蓄積された放射性分裂生成物のほとんどが、大気中ないし地下水系に放出されるだろう。なかでも危険なのは、数億キュリーの放射能を持つキセノン、ストロンチウム、セシウム、ヨウ素、そして微量のプルトニウムだ。これらが風に乗り、何百マイル四方へと拡散する。
摂取なし吸入されたストロンチウムは、被曝した人間の骨に蓄積される。ヨウ素は甲状腺に蓄積する。短期間に数千人が死亡するだろう。さらに数千人が数年以内に死亡する。すなわち放射性降下物(死の灰)による骨がん、甲状腺がんをはじめとする各種のがんによる犠牲者である。プルトニウム239を1000万分の2グラムでも吸入すれば、がんになる可能性がある。約450グラム(1ポンド)のプルトニウムをまんべんなく投与すれば、アメリカ国民は全滅だ。
そうはならなかったが、フクシマ事態はすでにスリーマイル島原発事故をこえたといわれる。であるのに、政府発表にストロンチウムのことは一度もあらわれない。なぜなのか?
国民に無用の心配をかけたくないから、などという言い訳など聞きたくない。明石さんとともに事実の公表をつよく要求したい。
前田哲男(2011年4月11日)
●「原発汚染水の海中放出」で思いだすこと2 前田哲男(ジャーナリスト)
震災以来、黒澤 明の2作品がしきりとおもいおこされる。『生きものの記録』(1955年)と『夢』(1990年)。そこで描かれた黒澤の予見にみちた核時代観にいまさらながら驚嘆している。
両作品でかれは「原爆」と「原発」に真正面から取りくんだ。『生きものの記録』はビキニ水爆実験の翌年、『夢』はチェルノブイリ事故から4年後に制作・公開された。
巨匠の作品群のなかであまり評価されていないが、それはたぶん、手にふれるのが熱すぎるからだろう。とくに『生きものの記録』を、わたしはいちばん重要な黒澤作品だと思っている。おなじビキニ水爆実験に着想しながら、そこでは『ゴジラ』(1954年
本多猪四郎監督)とはまったくちがう世界が開示されている。
拙著『武力で日本は守れるか』(高文研1984年)のなかで、「ビキニ事件直後、核の時代を克服するための注目すべき試みが3つ立った」として、「杉並の一主婦による原水爆禁止運動の誕生」、「ラッセル・アインシュタイン宣言」とならべ、この映画をあげたことがある。その部分を引用する。
3番目に、わたしは黒沢明の『生きものの記録』をあげたい。この映画もビキニ事件の翌年、それに触発されて世に送られた。主人公は「ラッセル・アインシュタイン宣言」で動くタイプとは正反対の、エゴと本能に支配されている初老の自営業者(三船敏郎が扮した)。この人物が「水爆なんぞで殺されてたまるか」と、生き残りのための闘争をはじめるのである。裁判所に家族が申し立てた准禁治産者処分は、主人公・中島喜一の行状をつぎのように述べる。
右喜一は、昨年6月より突如として、原子爆弾、水素爆弾、及び同放射能に対する極端なる被害妄想に陥り同年九月、南方方面より来る放射能を避けると称し、近親者全員の反対にもかかわらず、秋田県仙北郡大麻村に480坪の土地を購入し、奇妙な地下家屋の建設を始めた。・・・ところが、本人の奇矯なる行動はそれのみにとどまらず、その後はもはや地球上で安全に暮らせる土地は、南アメリカだけにしかないと称し、近親者全員のブラジル行きを全く独断で計画、これが実行のため、全財産を投入するもやむなしと宣言するに至った・・・。(シナリオより)
黒沢の造形した人物は「原水禁活動家」とはまるでちがっていた。むしろ「遅れた」意識の持ち主である。にもかかわらず、この人物に彼はビキニ事件のイメージを託し、核時代の恐怖を描いた。
中島老人は、家族からも孤立し、裁判所からも認められず、核戦争の恐怖にさいなまされて、ついに狂ってしまう。ラストシーンで老人が叫ぶ――。
喜一、急に窓の外を指差して、叫び出す。
「地球が燃えとる!!」
遠く燃えている落日、喜一、その夕日をカッと浴びて叫びつづける。
「燃えとる!! 燃えとる!! とうとう地球が燃えてしまった」
沈みゆく太陽にかぶせられたこの台詞による結末が、「ラッセル・アインシュタイン宣言」とまったく同一の映像表現であることはいうまでもない。そして私たちが目下直面している状況も、これと変わったなどとは少しもいえないのである。(引用終わり)
ビキニ事件の翌年、黒澤は『生きものの記録』映画パンフレット(1955年8月)につぎのように書いている(『黒沢 明全集』第4巻
岩波書店1988年 p312)。文中の「水爆」、「この問題」を「原発」、「今回の福島事故」と読みかえてみてほしい。
「この映画は、水爆の脅威を描いている。しかし、それをセンセーショナルに描こうとは思っていない。
ある一人の老人を通して、この問題をすべての人が自分自身の問題として考えてくれるように描きたいのである。
この問題は、恐らくだれの頭の中にも、おぼろげながら大きな不安な影を投げている。しかし、大方の人はそれから目をそむけている。これは、我々にしてもそうであるが、問題があまりにも大きく怖ろしいからだ。そこに人間の弱さと愚かしさがあるのではないか。
例えば、この水爆の脅威を他の動物が知ったなら、おそらく本能的に行動を起こすだろう。少しでも安全な場所を捜し、そこへ向かって種族保存の本能から大移動を起こすだろう。この映画の主人公は、そういう生きもののかしこさと強さをもっている。
この主人公は、その一見奇矯な行動の中に、生きものの正直の叫びを聞いて貰いたいもと思う。」
黒澤はさらに、この映画が『七人の侍』撮影中に、作曲家・早坂文雄(『七人の侍』のテーマ音楽作曲者)のことばに触発されたことをあきらかにしている(同書「作品解題」p348)。
「『七人の侍』をやっていた時だな、早坂のところへ行ったら急に“こう生命を脅かされちゃ、仕事はできないねぇ”と早坂が言い出したんだ。・・・彼がビキニの爆発のニュースを聞いて、こういうことを言う。僕はドキッとしたね。次に会った時、僕が、おい、あれをやるぜ、と言ったら、早坂は、たいへんなことだよ、と驚いていた。『生きものの記録』はその時にはじまったんです。」
早坂文雄は、『七人の侍』冒頭の雄渾なテーマ曲だけを残しての撮影中に死んだ。黒澤は劇中音楽を使うことをやめ、早坂がピアノの上にのこした4小節を弟子の佐藤
勝にバイオリンのソーイング・ソロ(のこぎりを引くような奏法)に編曲させ、ドラマ終了後の画面に流した。このようにビキニ事件は、『七人の侍』にも影を落としているのである。
もうひとつの『夢』の第6話「赤富士」は、原発のメルトダウン事故によって、富士山が真赤に焼け、溶岩の岩となってくずれていくという現代の悪夢をあつかった作品である。
1990年5月公開されたこの映画は、バブル経済真っ盛り、そして原発エネルギー万能が謳歌されていた時代への黒澤の発言であった。
公開時の記者会見で、「水車のある村」(第8話)には自然破壊に対するメッセージがふくまれていますが、との指摘に、「ぼくはメッセ
ージみたいなのはいやなんだよ」と答え、つぎの「富士山が爆発するのは、反原発の訴えでは?」という質問に、こうのべている(『キネマ旬報』1989年8月下旬号
黒沢明監督インタビュー、『全集』最終巻より再引用)。
「(うんざりしたように)まぁ、映画を見て下さい。原発問題にしても、原発が大事故を起こしたりしたらタイヘンだし、そういう危機感ってあるでしょう。富士山が噴き出したりするのは夢だしね。こむずかしいこと言っているわけじゃない。観てもらうしかしょうがないんだな(笑)」
では、黒澤の(メッセージでない)夢とは、どんなものだったのか。シナリオから抜粋してみる。
【6−1 道】
私は群衆の流れにもまれている。
私「どうしたんです?」
私「何があったんです?」
富士の向こうの空は一面に原子雲の様に沸き返っている・・・
私、呆然としてつぶやく
「噴火したのか! 富士山が! 大変だ!」
「もっと大変だよ!」
女が怒ったように言う。
女「あんた! 知らないのかい。発電所が爆発したんだよ、原子力の!」
私「?!」
通りかかった男が振り向いて言う。
「あの発電所の原子炉は六つある。それがみんな次から次へと爆発を起こしてるんだ」
私も女も逃げ出す。
男「せまい日本だ! 逃げ場所はないよ!」
【6−2 海辺の断崖】
断崖に続くうねうねとした丘を色々の色をした霧の様なものが静かにただよって来る。男は、それをながめながら言う。
「あの赤いのがプルトニューム239、あれを吸い込むと、1000万分の1グラムでも癌になる。黄色いのはストロンチューム90、あれが身体の中に入ると、骨髄にたまり、白血病になる。・・・紫色のがセシュウム137、生殖腺に集まり、遺伝子が突然変異を起こす・・・全く、人間は阿呆だ。放射能は目に見えないから危険だと言って、放射性物質の着色技術を開発したってどうにもならない。知らずに殺されるか、知って殺されるか、それだけだ。死に神に名刺貰ったってどうしようもない! ・・・じゃ、お先に!」
男はスタスタと断崖の突端へ歩いて行く。
私は、あわてて男を抱きとめる。
女が子ども達を抱きしめて喚く。
「原発は安全だ! 危険なのは捜査のミスで、原発そのものに危険はない。絶対ミスを犯さないから問題はない、とぬかした奴等は、ゆるせない! あいつら、みんな縛り首にしなくちゃ、死んでも死にきれないよ!」
男「大丈夫! それは、放射能がちゃんとやってくれますよ。すみません。僕もその縛り首の仲間の一人でした」
私は返す言葉もなく振り向いて見る。
色様々の霧の様な放射能が静かに荒野を冒して近づいて来る・・・
そう、私たちはいま、黒澤の見た夢が、がせいぜい“悪夢”にとどまってほしいとねがっている。冥界の黒澤も、たぶん・・・?
前田哲男(2011年4月9日)
●「原発汚染水の海中放出」で思いだすこと 前田哲男(ジャーナリスト)
桜井さんからは「9条と脱原発」でなにか、と頼まれたのだが、ついこのあいだ駄弁ったことなのに、いくら頭を振ってもすじみちがよみがえってこない。たいした考えではなかったのだ、と諦めて新聞を読んでいたら「低汚染水
海に放出」「放出は6日朝までに合計1万トン近くに達している」の記事が目にはいって、そこからふたつのことが即座に思いだされた。くっきりした遠景とおぼろげな近景。もうすぐ後期高齢者なのだから、わが格納容器の循環系が混乱するのはいたしかたない。そこで弱った脳活動にさからわず、今回は、思いだしたことを書いてみたい。
◎「ビキニの死の灰」の海洋汚染調査で
最初に頭に浮かんだのは、「ビキニの死の灰」のことだ。1954年3月1日、マーシャル諸島ビキニ環礁でアメリカの水爆実験がおこなわれ、おびただしい放射性降下物(フォールアウト)が太平洋に降りそそいだ。その下で焼津のマグロ延縄漁船「第5福竜丸」が操業していて、また、ロンゲラップ島、ウトリック島などの住民が生活していた。
わたしが書いた最初の本、『棄民の群島 ミクロネシア被爆民の記録』(時事通信社1979年)は、「福竜丸の向こう側の光景」を描いたものだが、震災以降、海に溶けこんだ分裂生成物の行く末に目を向けると「死の灰」と「死の水」、「水爆」と「原発」の共通点が見えてくる。
放射能汚染水の海洋放出にかんし、東電や官房長官は「周辺海域の魚や海藻を食べ続けても人体に影響はない」といっている。海中で拡散・希釈され、やがて無害になる。魚の汚染は「風評被害」なので聞き流せ、というわけだ。
「ビキニ核実験」を実行した米政府関係者もそういっていた。ストローズ原子力委員長は「実験場のごく近くをのぞいては、ビキニ海域の海水には放射能はない。あったとしてもロスアンゼル市の水道水のそれくらいだろう」と断言した。日本の科学者のなかにも「大きい池のなかに赤インキを一滴おとしたようなもの。海水には放射能は検出されないだろう」と公言する人のほうが多かった。
しかし、現実はそうではなかった。広範な海洋汚染が引き起こされていた。「食物連鎖」と「生物濃縮」という生態系のつながり──拡散でなく連鎖、希釈せずに濃縮──である。
皮肉なことだが、死の灰追跡からそれを立証したのは日本の科学者だった。地球化学者・三宅泰雄著『死の灰と闘う科学者』(岩波新書1972年)には、凡庸で傲慢な常識が厳然とした事実によってくつがえされていくさまが克明にしるされている。第5福竜丸の帰港であきらかになった乗組員の被曝とマグロ汚染に打撃をうけた水産業界の要請で、5月、「俊鶻丸」が東京を出航、核実験場周辺海域で生物・環境衛生・気象調査が実施されたのだ。
「ウェーキ島ををでて2日目、5月30日の朝、海水中に1リットルあたりはじめて150cpmの放射能が検出された。プランクトンにも生重量1グラムあたり数千から一万cpmの放射能があった。船体も漁網も、手袋も放射能で汚染された。」(p60)
「その翌日、第6回目の観測がおこなわれた。海水もプランクトンも、前日よりさらに汚染の度をくわえていた。このあたりには、北赤道海流がながれていて、海水は東から西へ流れているはずであった。ここは、いわばビキニ環礁からは上流にあたるところである。しかも、ビキニ環礁から1000キロも東にはなれていた。信じがたいことだが、その海域で海水も、プランクトンも放射能で汚染されていたのだった。調査団がこのような海域で海の汚染を発見して、大きいショックをうけたとしても、それはとうぜんのことである。かれらは水爆実験の怪物的な様相を、しだいにみずからの目や耳で認識しはじめたのであった。」(p61)
「・・・とくにカツオの汚染がはなはだしかった。しかし、魚は大型、小型の別なく、多かれ少なかれ、汚染されていることがわかった。
筋肉にくらべて内蔵の汚染は、けたちがいに大きく、肝臓、腎臓、脾臓などの順で放射性物質の濃縮がみられた。
プランクトンの汚染は、海洋循環の指示物質になることはすでにのべたが、大型の動物プランクトンのなかには、じつに生重量1グラムあたり7万6000cpmというつよい放射能をもつものさえ発見された(6月20日)。
海水の放射能は「ロスアンゼル市の水道水」どころか、アメリカ原子力委員会オークリッジ国立研究所で、放射能排水をためてあるホワイト・オーク湖の水くらいの放射能をしめした。」(p67)
「しかし、それにしても、水爆の爆発地点から1000キロも2000キロもはなれて、なお海水にも生物にも放射能があるということは、今まで想像もしていなかったことだけに、調査団の科学者をはじめ報道を聞いた多くの国民をおどろかせた。
もちろん、このことは、アメリカ側でもぜんぜん予想さえしていなかったことであった。かれらもまた、巨大な量の海水の希釈能力を過信していた。また、放射性物質が生物体内の濃縮することの結果を過小評価していたのである。水爆のおよぼす影響を評価するには、いままでの常識はなんの役にも立たなかった。常識をこえた水爆の影響は、さらに、放射性物質によるグローバル・スケール(地球規模)の汚染をはじめとして、思いもよらぬところにあらわれてくるのである。」(p70−71)
以上は『死の灰と闘う科学者』からの引用だが、三宅さんも監修者となった『ビキニ水爆資料集』(東京大学出版会1976年)には、より詳細な調査データが報告されている。このような明確な事実が、すでに確認されているのである。にもかかわらず、だれもまだ思いだそうとしていない。
チェルノブイリが引き合いにだされても、メディアから「ビキニ・第5福竜丸・海洋汚染」の体験がつたえられることはない。もっぱら垂れ流されるのは、「1年間食べ続けても・・・」式の報道ばかりだ。この健忘症! あのとき、「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇」「23名が原子病」とスクープしたのは読売新聞でなかったか?
『映像ドキュメント』にアップされた山本大輔さんの「オーストリア、ウィーンから」にかかげられたオーストリア気象地球力学中央研究所作成の「放射線尾拡大地図」を見ると、
三陸沖に発した汚染海流が、北緯30度から50度の海域を西から東に、鞭がしなるように、あるいは今回の津波の引き波のように、拡散範囲がひろがっていくパターンがしめされている。北太平洋海流。「死の灰」を押しひろげた北赤道海流と逆の流れだ。やがて北米西岸海域に到達し北上、還流するだろう。
「死の灰」と「低汚染水」の量の比較を考慮することは必要だが、しかし福島原発の汚染物質放出は、まだはじまったばかりなのだ。
◎日本が放射性廃棄物を海洋投棄しようとしたとき
もう一つの記憶は、「低レベル放射性物質海洋投棄計画」にかんすることだ。1980年代初頭、日本政府は、原発からでる放射性廃棄物のうち「低レベル」に区分されるもの──格納容器から漏れる水、床掃除に使った水、放射能汚染したぞうきん、手袋など──を「一般廃棄物並み」にあつかい、それらをドラムかんに詰めてマリアナ諸島沖の太平洋深海に投棄処分する方針を打ちだしたことがある。1978年度で8万5000本、原発敷地内に貯蔵しておくには限界にちかづいたからだ。計画があきらかになると、グアム、北マリアナ、パラオ、ナウルなど太平洋諸国・地域からいっせいに反対の声がまきおこった。
1981年9月2日、グアムでひらかれた太平洋地域首脳会議に出席した科学技術庁(当時)の原子力安全局・後藤宏次長は、8カ国の大統領・知事をまえにこんなことをいった。
「中川大臣(科学技術庁長官)はつねづね次のようなことを強調しておられます。
第一は、日本が海洋処分しようとしている放射性廃棄物は、原子力発電所の中でごく普通の倉庫に、ドラム缶に詰めて貯蔵されていますが、このドラム缶にキスしても、抱きついても、あるいはそのわきにベッドを置いて寝ても大丈夫なほど安全に処理されているということです。(会場笑い)」(『土の声、民の声』1981年10月号)
(会場笑い)の意味は、9月3日付毎日新聞によると、「後藤次長は真剣な表情でこの約束をしたのだが、聞き手の方は冗談と受けとったらしく、会場はどっとわいた」というものであったらしい。首脳会議は「日本政府の低レベル放射性物質の海洋投棄計画への反対を再確認する」決議を採択した。
これを機に、海洋投棄反対の動きは太平洋全域にひろがり、1985年調印された「南太平洋非核地帯設置条約」(ラロトンガ条約)に、「低レベル放射性物質の海洋投棄を禁じる」条項が加えられる要因ともなった。いっぽう、国内でも「全魚連」が反対の方針をかため、1985年、中曽根内閣は、海洋投棄計画を断念した。
今回放出された、またそれ以前、そしていまも太平洋に流れでた「低汚染水」がどのくらいの総量になっているのかわからない。いずれであれ、それが「低レベル放射性物質の海洋投棄」である事実にかわりはない。「ロンドン条約」(廃棄物その他のものの投棄による海洋汚染の防止に関する条約、1975年発効)に違反することも明白だ。東電は全魚連会長の抗議に返すべきことばをもたなかったが、これからは国際社会からの抗議に直面することになる。海に溶けこんだ放射性廃棄物は、生物濃縮と食物連鎖をかさねながら、太平洋を浸しつづける。セシウム137・半減期30年、プルトニウム239・2万4000年・・・。
前田哲男(2011年4月7日)
●原発に思う
3月11日の地震から2週間がたった。
2週間前は、今から思えば、なんと平和で無知だったのだろう。
地震と、そのあとの津波で岩手、宮城、福島の沿岸はことごとく破壊され、そして福島第一原発でも事故が起きた。
機械があちこち壊れて、非常用の準備がほとんど使えず、持ち主の東京電力にはコントロールできなくなった。
格納容器を冷やせなくなって、燃料棒が溶けてきたり、たまった水素が爆発して建物が吹っ飛んだり、むき出しで置いてあった使用済みの核燃料まで出火したりと、ハリウッド映画よりはるかに恐ろしい事態が次々と起きた。
もうめちゃくちゃである。
空気や海は放射能で汚染され、野菜や水道水、牛のお乳からも放射性物質が検出された。
ヨウ素やセシウム、プルトニウム、シーベルトやベクレル、10万倍とか、1000万倍とか、聞きなれない単位や元素が、飲み屋や喫茶店の会話からも聞こえてくる。
放射能は目に見えない。匂いもしないし、味もしない。
地表を這うようにまわりへ、川の流れに、あるいは風にのって遠くへ。
確かめようのない不安。
もうすぐ桜の季節だというのに、心は沈んだままだ。
ようやく暖かくなったというのに、外気にあたる気にはならない。
企業秘密なのか本当にわからないのか何も言わない東京電力、放射線量が基準値を超えても「影響はない」とだけ繰り返す政府の会見、それをそのまま伝えるテレビ番組のあり方も恐怖を誘う。
250キロ離れた東京でさえ、子どもの疎開先を考える。
なぜ日本はこんな悪魔のようなものをいまだに使っているのか。
他国にならって、自然に影響のない発電方法を開発することはできないのだろうか。
原発なしでは、発電できる電力量が限られるというなら、それで結構。
みんなでシェアすればいい。
人それぞれ、できるところから電気を使わなくてもいい生活に切り替えたい。
脱原発、反原発、これからは当たり前になるだろう。
当たり前にしていこう。
川原理子(2011年3月30日)
●提案
一つの提案をします。
今のような状況では、目前の危機に目を奪われて、将来の原発のことを語ることは不謹慎であるという意見が必ずでてきます。
しかし、そうした似非現実主義は乗り越えなければなりません。
全国の原発立地で原発に対する根源的な疑問、操業停止の要請、撤去要求などの動きを集めることこそが、当局者に対して、現下の危機の克服に邁進させる最大の圧力にもなると思います。
それが、次の社会の再建の基盤にもなると信じます。
日本各地の原発周辺での住民の声や運動を集約し、その言葉、行動を記録し、それらを横につなぐ輪を作りあげたいと思います。
私たちには、映像を集め、声を集約してネットに配信したり、メディアに働きかけるための記録、編集、発信の仕事ができます。
桜井 均(2011年3月27日)
●タヒチからのメッセージ
仏領ポリネシアのフランス核実験被害者団体、モルロア・エ・タトゥ協会からのメッセージ。ピースボート、原水禁国民会議に届いたもの。翻訳・紹介は、真下俊樹さん。
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パペエテ、2011年3月18日
親愛なるピースボートの皆さま
親愛なる原水禁の皆さま
親愛なる日本の皆さま
フランス核実験被害者を守る私たちモルロア・エ・タトゥ(モルロアと私たち)協会は、このタヒチから、2011年3月11日に日本国民を襲った大地震、そしてそれに続く津波による破壊と福島原発事故の悲劇という恐ろしい不幸を前にし、皆さまへの連帯と悲しみを謹んで表明いたします。
日本の歴史のなかで、皆さまは2度目の核の脅威に襲われることになりました。皆さまが最初の犠牲者となった原爆であろうと、最も優れた技術者でさえも手なずけることができない原子力であろうと、核の脅威は同じものだということを、あなた方はここタヒチで繰り返し思い起こさせてくださいました。
私たちは、文民であれ軍人であれ、破局が起きるのをできる限り押しとどめようとみずからの健康や命をも顧みず闘う人々に対して、大きな、そして悲しい感嘆をおぼえます。私たちは、津波の暴力によってまたたくまに命を落とした幾千もの魂に大いなる思いを抱く者です。親を亡くしたうえに、家や畑、仕事を捨てねばならなかった何十万という日本の方々を待っている未来がどのようなものかを深く憂慮する者です。
今日、日本の皆さまは、この新たなヒバクシャ、福島原発の被害者の方々を援助しなければなりません。広島長崎、そして核実験を生き延びた人々が体験したものと同じ健康への脅威と未来世代への脅威、チェルノブイリ原発事故の被害者が1986年以降体験して来た脅威を、福島の「原発避難民」の方々は耐え忍ぶことになります。
私たちは、ピースボートがタヒチに寄港した2011年2月5日に、皆さまが思い起こさせてくださった森滝市郎元原水禁事務局長の「人類と核は共存できない」という言葉を心から支持する者です。
私たちヒバクシャすべてに課せられた使命とは、原子力というものが、核兵器と戦争が人類に要求する代償に匹敵する危険をもたらすことを世界の世論に訴えることです。
親愛なる日本の皆様、皆様を苛む苦痛のただなかで、大震災とその後の災害の犠牲になられたすべての方々に対する私たちの連帯と祈りを、もういちど想い起こしていただくことを切に望みます。
モルロア・エ・タトゥ
●オーストリア、ウィーンから
ウィーンの山本です。荒川さんの(古い)友人です。
蔵の上映会(団地「妻」の回)に一度参加しただけですが、映像ドキュメントの活動に敬意を表しています。
今思うこと・・・の前に、今知っていることを書きます。
ここでも話題になったドイツ、シュピーゲル誌の「放射能雲の拡散予想図」は、ウィーンにあるオーストリア気象地球力学中央研究所(ZAMG)で作成されたものです。
⇒放射能の拡散地図(http://www.spiegel.de/wissenschaft/natur/bild-750988-192309.html)
⇒その後の放射能の拡散地図(http://www.spiegel.de/wissenschaft/natur/bild-750988-192309.html)より地図をクリック
オーストリアはこの予想図だけではなく、色々とすばやい動きを見せました。
在日外交団の離日。ウィーン少年合唱団の来日公演中止。各地の日本支援コンサートの開催。
関心の高さの背景には3つの事実があります。
1)1977年に国民投票で原発建設を中止に追い込み「原発を捨てた国」であること。
2)1986年に国内に一基も原発がないのにチェルノブイリで放射能汚染の恐怖を体験したこと。
3)2000年には北のチェコ国境にあるチェコのテメリン原発の「暴走」
(2000年問題でコンピュータが誤作動を起こし原発を制御できなくなること)で再び恐怖を体験したこと。
いま、私はオーストリアの各地でオーストリア人の友人たちから、「大変だね」「心配だね」という温かい言葉と励ますをもらっています。
そして最近は「日本も原発を止めるべきだね」とも言われるようになってきました。
すでに70年代に「危険な」原発と決別した彼らの表情は晴れやかです。
次世代を担う子供たちのために正しいことをした、という誇りに満ちています。
どうして日本はこうなれなかったのだろう?
何が違ったのだろう?
現在オーストリアの経済はあまりよくありませんが、それでも一人当たりGDPでは日本と同程度。
生活水準も同じくらいで、便利なコンビニこそありませんが、庶民でも気軽にオペラを楽しみにいけるくらいの豊かな文化的生活があります。
経済規模が違うから、という理由だけで原発を容認するのではなく、何が安全で豊かな暮らしかを日本人は考え直す必要があるでしょう。
今思うことは、ウィーンに暮らす自分が、ここに書いたような情報を積極的に発信して行きたいということです。
ここにはNHKの関係者もいらっしゃいますが、NHKでは外部の人間に原発がらみの番組は作らせません。
もちろん民放では電力会社が有力なスポンサーです。
それでも私は発信の努力を続けたいと思っています。
もちろん映像ドキュメントでも。
ここで何ができるかを考えたいと思っています。
それが今思っていることです。
山本大輔(2011年3月26日)
●福島原発事故──「最悪の事態」にだけはなってほしくない
映像ドキュメントのメーリングに、福島原発事故をめぐって2回書きました。もしかしたら大変なことになってしまうと思った3月11日以来、緊張といらだちと、なんとも表現しにくい気持ちで過ごしてきた日々の記録です(3月18日まで)。
このコーナーには長文すぎるので、どうしようかと思ったのですが、手を加えて載せることにしました。
私は原子力の専門家ではないし、原発や放射能のことを勉強したのはチェルノブイリ原発事故のときのこと。正確ではないところや、私が間違って理解しているところもあるかもしれません。それぞれの時点で考えたことを書いたので、その後の発表から修正すべきところもあるはず。そのつもりで読んでいただければと思います。
◎福島原発事故をめぐって 第1信(3月15日昼記)
荒川です。この数日間、仕事も手につかない状態で、テレビをつけっぱなしにして、福島原発がどうなるかばかり気にしていました。(まあ仕事に追われていないということもあるのですが。仕事がばたっととまった)
ことの深刻さに見入り、いらだつばかりで、やっと福島原発について考えをまとめようとはしはじめたのですが、この事態のなかでいま何が言えるのか、さらには何ができるのか、まだすっきりはしていません。まあ、ともかくこの間のことを書いてみます。
3月11日(金)
福島原発は地震の直後に自動停止はしたのですが(核分裂はとまった)、その日の夕方近くに非常用ディーゼル発電機の一部が動かないという話が出て、その後、すべてが動かなくなったと報道されたときには、ショックというのか、なんとも言いようのない気持ちになりました。
核分裂はとまっても熱は残っているし、発電によって燃料棒のなかには核分裂生成物(死の灰ともいう)が大量に生まれていて、それは崩壊をつづけるので熱を発する。だから崩壊がおちつき冷めるまでは、給水ポンプをまわしつづけ、冷却しないとならないのです。
ところが停電でポンプがとまり、さらには非常用発電機も動かなくなったというのです。
もし冷却できないとなると、その熱で核燃料が溶け始め、つまり炉心溶融(メルトダウン)が起こり、さらには内部の圧力上昇などで原子炉容器が壊れでもすれば、核分裂生成物、つまり放射能(放射性物質)が次々と外に出てしまう。その壊れ方が爆発的なら、チェルノブイリ原発事故と同じような事態になるわけで、そうなるとほとんど打つ手はなく、「最悪の事態」です。
だからそれを避けるには、なんとしても炉心を冷却するしかないのです。
3月12日(土)
3月11日の夜中、発電車が到着したという報道を聞いて、一安心と思ってこの日は寝たのですが、翌12日になると事態は収まるどころか悪い方向へ向かってました。
いったい電源車はどうなったんだと怒鳴りたくなったのだけど、冷却装置が働かず圧力制御ができず、内部の水蒸気を放出するという話になっているのだった。
午後2時すぎには1号機の周辺でセシウムを検出。本来セシウムは燃料棒のなかにおさまっているべき核分裂生成物で、つまり燃料棒の一部が損傷していた。それが外に出たということは、外へ漏れ出すルートもできてしまったのか、それともすでに放出されていたのか。
そうこうするうちに5時ごろだったか、午後3時36分に福島第一の1号で爆発が起こったという話。日テレがその場を遠くから撮っていて、見るとすごい勢いで爆発している。
原子炉は大丈夫なのかと思ってはらはらしているところにやっと夜9時前、枝野官房長官の会見で格納容器の破損はないという話。
そして1号炉を海水で満たすことを決めたという。
海水で満たすということは、この原発は二度と使えなくなるわけで、それでもやるとすれば冷却用の水がもうなくなっているのだろうか。
夜10時には、TBSが周辺住民が被ばくしていたことを報道。福島第一から約3.5キロの双葉高校グランドで避難ヘリを待っていた双葉厚生病院の患者たちが1号の爆発を目撃、ヘリが来ないので病院に戻り被ばくをチェックしたら、調べた3人のうちすべてが除染が必要なレベルだったという。
この爆発による被ばくの可能性もあるが(のちの報道で爆発の衝撃というのか圧力をかんじたという)、すでに放射能入りの水蒸気の放出は行われていたので、この爆発以前にも相当量の放射性物質が周辺に放出されていた可能性も高い。
その後、1号機の海水注入作業が進められているのだか、どうなっているのかわからないまま明け方5時半、原子力安全・保安院の記者会見で海水注入はできて、このまま海水の供給が続けば問題はないと発表される。
が、このとき裏方からペーパーが届いて読み上げられたのだが、福島第一の3号で「全給水流出」が起こったという。
ええ?なんで、と思っていると記者から、電源車は何台も入っていましたよね?といった質問。答えを聞いて驚いた。「電源車は2号を優先して3号にはついていない」。なんでなんだ。
3月13日(日)
翌13日は昼前に映像ドキュメントの桜井さんの電話で起き出し、テレビをつけるのだが‥‥、こんどは3号が危ないという話になっていた。明け方の保安院記者会見で出た話が進行していた。
発表されていなかったのだが、3号機は夜中の3時前には冷却機能をすべて失っていて、こちらも水蒸気の放出と注水を進めるという話。
この3号機は、プルトニウムを燃料にして燃やすプルサーマルという危ない発電を実施している原子炉。つまり燃料棒にはウランだけではなく、プルトニウムもつまっている。
事故当初から原発の事情を知る人たちのあいだでは、3号機だけは何も起こらないでほしいと話が出ていた原子炉。(昨年9月23日より発電開始)
午後2時半ごろには、東北電力の女川原発で異常な放射線値を測定したとの発表。
異常値が出たのは前日夜11時ごろからで、最大値は通常の約700倍とのこと。
推測だけど、前日の1号炉の爆発のときに上空にまきあげられた放射能が風に乗って約120キロ、7時間半かかって女川原発にたどり着き始めたということだろう。
この日は、周辺住民の被ばくが次々と明らかになり、人への除染作業が始まったことが伝えられる。
その影響が広がるのを恐れているのか、不安をあおらないという方針なのか、テレビのコメンテーターにしても解説者にしても、「不安はない」「問題はない」といった発言ばかり。ウソつくなと、腹立つばかり。あおる必要はないけど、事実は事実としてきちんと語るべきだ。
よく語られるのが「直ちに人体に影響をおよぼすレベルではない」「健康に影響が出る被ばく量ではない」というやつ。「被ばくと言っていいのかどうか、被ばくではなく、服が汚染されただけ」なんて言いだすやつもいるし、「レントゲンで受ける被ばく線量に比べるとたいしたことはない」、「東京ニュ─ヨーク間の航空機に乗れば受ける程度」とか。
確かにすぐに目に見える障害(急性障害)が出るレベルではない。除染も行ったわけで、その意味で、「直ちに人体に影響をおよぼすレベルではない」はウソではないけど、時間がたったらどうなのか? 時間がたってから出る障害(晩発性障害、ガンや白血病)は、受けた被爆線量に応じてある確率で必ず出るのだから、「急性の障害は出ないけど、長期間たってからの障害はわからない。何年かたってからガンや白血病になる可能性はある」と語るべきなのだ。(被爆線量に応じてガン白血病発症の確率は一応計算できる)
胃へのレントゲンは身体の一部(胃)に対しての照射で、全身への被曝ではないから、同列に比較するのはまずいと思う。全身への被曝に換算するとその何分の一かになるはず。それとも全身に換算した数字を出しているのだろうか。
しかも単位の混同があって、この日、福島第一原発の境界で測定された1000マイクロシーベルト/時というのはとんでもない線量なのに、公衆の被曝線量の限度は1000マイクロシーベルトだから同じ程度なんて言う人までいた。
公衆の線量限度は1年間に受ける累積の線量限度を決めたもので、一方いま語られているのは1時間あたりの値。もし福島原発の境界にいたなら、たった1時間で年間の線量限度に達するというレベル。そこに10時間いればその10倍もあびてしまう大変な数値なのだが‥。それで解説者といえるのだろうか。
(ちなみに、福島原発の事故前の通常値が0.04マイクロシーベルト/時。5マイクロシーベルト/時が原子力災害対策特別措置法で「異常事態」を通報すべき値で、500マイクロシーベルト/時は「緊急事態」を通報すべき値)
水蒸気の放出にしても「弁が開いてガスの放出に成功しました」なんて語っているが、それは放射能放出に「成功」したということなのに。
どれだけの放射能が放出されたのか、記者は問おうとはしないけれど(いまわからないかもしれないけど質問したっていいだろう)、放射能放出は1基ではないのだから、根拠のない推測をしてしまえば、スリーマイル原発事故をすでに超えている気がする。
この日、3月13日に広河隆一さんと日本ビジュアルジャーナリスト協会の計6人が現地に入ったところ、福島第一原発から約4キロの双葉町役場玄関(10時20分)、双葉厚生病院(10時30分)と、両地点とも1000マイクロシーベルト/時まで測れる測定機の針が振り切れたと伝えられる。
⇒OurPlanet-TVのYouTubeチャンネル(http://www.youtube.com/watch?v=IqqLU4q1dBg)
4キロ離れてそれだけ出て、女川原発の120キロでも検出できてしまう、今日14日には「救援」に来たといわれる米軍ロナルド・レーガン号までもが放射能を検知して北へ移動した(要するに逃げた)というのだから、かなりの放射能が出ていると理解すべきだ。そのうちロシアも検出したと発表するときがくるのかもしれない。
まだ雨が降らないだけ幸いで、雨が降ったら上空の放射能は落ちてきてもっとひどいことになる。
ネットで調べると、『朝日新聞』が16時30分付で、東電社員2人が不調を訴え搬送されたことを伝えている。1号、2号機の中央制御室で全面マスクを着用して作業中だったという。
考えてみるとあの現場で働いている人たちのことはまったく伝わっていない。いったい何人の人が、どのような態勢で対処しているのかといったことが記者会見で質問されるのは見たことがない。
放射能入りであっても原子炉が圧力で壊れないようガスを放出し、海水を注入して炉心を冷やし炉心溶融を少しでも抑えるのは、「最悪の事態」を避けるため。私もほかに方法はないだろうと思うし、現場の職員たちが命がけで努力しているのを想像すると、なんとかやりとげてほしいとしか言えない。
でも東京電力にしても保安院にしても記者会見に出てくるお偉いさんたち、少しは謙虚に語れと言いたい。マスコミもそれに乗っちゃまずいだろう。もっと追及すべきだし、あとになって、避難した人たちは戻れないとなったらどうする気なんだ。ちょっとあつくなってますが‥。
3月14日(月)
そして今日3月14日、こんどは3号機が爆発した(午前11時)。あとで現場の映像を見たが、1号機のとき以上の爆発力で、白煙がほぼまっすぐと上空に向かい、かなりの高さまであがっている。
午後5時ごろには2号機も冷却機能喪失という発表。はじまりは外部電源がなくなったためだという。またもや発電車だ。
福島第一原発は、1号、2号、3号が自動停止して、そのすべてがいまなお「最悪の事態」をかかえている。
そして第一原発の陰に隠れて注目されていないけれど、福島第二原発も1号、2号、3号、4号が自動停止し、うち冷温停止にいたり安定したのは3号だけ。内部ガスの放出も行っているようだし、ポンプが故障したという話も断片的に伝わってきたりする。(いまネットで調べたら、1号、2号はポンプが再稼働し冷温停止したとのこと。一安心。4号はポンプを修理しているという)
と書いたのは昨日というか今日の明け方。
で、起きた3月15日昼。事態は大変なことになっていた。
動いていなかった4号で爆発音がして火災。2号でも爆発音がして圧力抑制プールが破損、つまり格納容器の一部が破損。3号機周辺で40万マイクロシーベルト/時が出て、30キロ圏が屋内待避。東京、埼玉、神奈川、千葉でも放射能が検出されているという。
◎福島原発事故をめぐって 第2信(3月17日記)
荒川です。前回のつづきをとは思ったのですが、次々と悪いことが起こり、何をどう書いたらいいのやら‥。
3月15日(火)
まず一昨日3月15日に起こったことであげるなら、最大の問題は、運転していなかった4号機までが爆発(朝6時ごろ)と火災を起こしたこと。
建屋外壁に8メートル四方の穴が2つあき、白煙(水蒸気)があがっている。使用済み核燃料を入れていたプールの冷却ができなくなり、水素が発生し爆発したもようという。原子炉だけでなく、使用済み核燃料までもが‥。
地震直後からプールの循環がとまっていて、前日14日04:18には84℃に達していたというのだから、なぜ放っておいたのだと腹立ちがおさまらない。
これはこれまで以上に、桁違いに深刻で、使用済み核燃料には発電によって生まれた核分裂生成物(放射性物質=放射能)が大量に入っていて、しかも、過去に運転した核燃料が何百体と入っている。さらに、プール内では水に覆われている(覆われていた)だけで、外気に解放されている。
いま海水を入れてなんとか冷却しようとしている原子炉内の核燃料は、それでも圧力容器と格納容器に覆われている(すでに格納容器の損傷も起き放射能を放出しているにせよ)わけだが、使用済み核燃料になにかあれば、そのまま外気に出てくる。
しかも圧力容器内の燃料と違って、こっちには制御棒がささっていない。
そして最大の問題は、そこにある核燃料の数だ。破損・溶融が起こったときの放射能放出量は、桁違いの話になってくる。
いま正確な数がみつからないけど、4号機のプールには783体入っていて、うち約130体が交換直後という話があるので、ざっと6基分の使用済み核燃料がそこにあることになる。
広島の原爆で核分裂を起こしたウランは800グラム。一方、100万キロワット級原発が1年間運転したとき、ウランは約1トン核分裂を起こしている。つまりそれによって生まれた核分裂生成物(放射能)の量は桁違い、想像を絶する量だ。
使用済み核燃料のなかには、報道によく出てくるヨウ素、セシウム、ストロンチウムのほか、プルトニウムも含まれている。
以前のデータがあったと思って調べたら以下のデータをみつけた。放射能の種類ごとに細かく書いてあったのだけど、要点だけ。
◎100万キロワット級の原発を1年間運転したときに生まれる核分裂生成物の量
(つまりは核燃料のなかにある放射能)
放射能の量は全量で18万(10×15乗ベクレル)、摂取限度の約2500兆倍。
このうち、
希ガス(クリプトン、キセノン)は放射能の量で3.5%、摂取限度でゼロ(気体で体内には蓄積しないと考え摂取限度は定義されていない)
ヨウ素は放射能の量で1.7%、摂取限度で3.2%。
セシウムは、放射能の量で2.4%、摂取限度で12.2%。
ストロンチウムは、放射能の量で2.4%、摂取限度で4.2%。
そしてプルトニウム。放射能の量で33.9%、摂取限度で32.4%。
3分の1はプルトニウム↑
翌3月16日には、4号機の使用済み核燃料プールだけでなく、14日の爆発で建屋上部が吹き飛んだ3号機でも白煙(水蒸気)があがり、3号機のプールも危ういという。(3号には514体、4基分の使用済み核燃料)
4号も3号も燃料プールが沸騰していしているという(それが水蒸気になるから白煙として見える)。3号の圧力容器内の燃料棒にはウランだけではなく、前回に書いたようにプルトニウムもつまっている。
いま必死になってヘリコプターやら放水車やらで水を入れようとしているのは、上のような放射能が放出する事態が考えられるからで、抑えられないと桁違いにやばい、ほんとに「最悪の事態」。
戻って3月15日に起こったことでもうひとつあげると、2号機でも爆発音(朝6時14分)がして、圧力抑制プールの一部が破損したこと。
圧力抑制プールというのは格納容器の一部で、3気圧が1気圧になったというから、格納容器は外とつながったことになる。
核燃料の入っている圧力容器はまだ保っているようだが、圧力容器から出た放射能は格納容器に出て、さらには外部へと出っぱなしになる可能性が高い。海水を送り込んでも、流れ出てしまう可能性もある。
(翌3月16日午後には、2号機につづき3号機でも圧力抑制プールの圧力が低下、同様の事態に陥った可能性が伝えられる)
3月15日午前の枝野長官の記者会見では、3号機付近で400ミリシーベルト/時が出たことを発表。つまりは40万マイクロシーベルト/時。
このときは枝野長官もケタが違うことを指摘して「人体に影響をおよぼすレベルであることは間違いない」とはっきり語った。
このとき30キロ圏の屋内待避を発表。屋内ではなく、ちゃんと圏外へ避難させろよ。
原発の周辺の放射線が高く、作業がむずかしくなっていることも伝えられる。
夜中には、厚生労働省が事故に対処している作業者の被爆線量限度を250ミリシーベルトまで引き上げると発表。
(従事者は1年で50ミリシーベルト、5年で100ミリシーベルト以内となっていて、国際的には事故対応時には500ミリシーベルト以内となっている)
この日3月15日には、福島県いわき市、茨城県北茨木市、栃木県宇都宮市、群馬県前橋市、埼玉県さいたま市、東京都、神奈川県横須賀市と、つぎつぎと放射線が測定されたことが明らかになった。
そのほとんどが空間放射線値で、それをひき起こす放射性物質の種類がわからないのだが、東京では微量のヨウ素とセシウムが検出されたという。
これらは3月14日11:01の3号機の爆発でまきあげられた放射能だと思える。
それで東京にいてもいいのかという話も出始めるのだが、そのことはあとでまとめて。
3月16日(水)
翌3月16日、昨日は昼過ぎ、宮崎からの電話で起き出しテレビをつけると、いったいどうなっているのだこれは?。
テレビで現場の映像が出たのだが、3号からは白い煙がもくもくと上がり、2号の海側の壁の穴からは灰色がかった煙が上がっている。
15日のところで書いたが、4号につづき3号でも使用済み核燃料プールが沸騰して、使用済み核燃料があやういという。
夕方近く、自衛隊ヘリコプターによる空中からの海水散布が準備されるが、放射線量が高いとやめてしまう。
事故対応には250ミリシーベルトとなったはずなのに、自衛隊は50ミリシーベルトなんだそうだ。
時間とのたたかいになっていて、時間がたてばたつほど使用済み核燃料は沸騰する水の中で損傷していくわけで、そうなれば250ミリシーベルトどころではなくなるのに。
3時すぎに事務所に行くと、川原さんがやってきて、夕方には吉川もやってきて話になる。「仕事しようとしても手につかない」と吉川。
森まゆみさんからも電話がかかってきて話。森さんは仕事先の九州にいて、娘に避難しなさいと話しているという。
避難するか避難しないかは、特に東京のように少しは離れている場所では(といっても230キロ)、こうすべきと語るのがむずかしい。最終的にはひとりひとりが判断して、自分でどうするか決定することだと私は思う。
現在の東京の放射線量で避難する必要はないけど、「最悪の事態」になった場合には、東京でも避難が必要になるかもしれない。そのときには、逃げようはないと私は思っている。いまのうちに避難できる人は(特に若い人は)東京を出るというのは、ひとつの選択肢だと思う。
1986年4月26日のチェルノブイリ原発事故は、爆発を起こして炉心がむき出しになるという、史上最悪の原発事故だった。爆発によって放射能は風にのってヨーロッパを襲い、日本にも放射能が降った。炉心がむき出しになったことで、その後も放射能は継続して放出された。
それから25年たったいまでも、チェルノブイリ原発の30キロ圏は居住禁止(永久立入禁止)となっているし、250〜300キロ離れた地域にも広大な立入禁止地域ができている。(風による放射能の流れと、そのときに降った雨が高汚染地域を決めたのだと思う)
菅首相は「チェルノブイリとは違う」などと語ったが、福島原発だって格納容器が壊れ、圧力容器も壊れて、炉心がむき出しになれば、放射能は大量に出てくる。それが爆発的なら、上空にあがって、風にのってチェルノブイリであったのと同じように広範囲に広がる。
しかも、使用済み核燃料はいまなお冷却ができていないわけで、すでに書いたようにこっちは外気に解放されていて、なにかあれば炉心がむき出しになったと同じこと。4号で6基分あり、3号には4基分ある。1、2号機にも使用済み核燃料が貯められている。
つまり放射能の量でいえば、福島原発では"数十基分"の原発事故が進行している。チェルノブイリどころではない。
◎放射線量をどう考えたらいいのか
放射線量について、その数値をどう考えたらいいのか、ひとりひとりが判断する材料を書いておくと‥
公衆の被曝線量の限度は、累積で年1000マイクロシーベルト=1ミリシーベルトと決められている。
この数値ならいいのかどうかはおいておいて、また空気中に浮遊する放射性物質を内部に取り込まないという前提で(内部に取り込むとその後、体内被曝がつづく)、計算の方法を書くので、それぞれの人が計算してほしい。
◎何日で公衆の限度に達するのか
年1000マイクロシーベルトというのは累積なので、もし報道で1マイクロシーベルト/時と伝えられるなら(毎時の線量なので)、1日あたりの被爆線量は1×
24時間=24マイクロシーベルト。
累積の1000マイクロシーベルトに何日で達するのかは、
1000 ÷(1マイクロシーベルト × 24時間)=42日
つまり、同じ放射線量がずっとつづくならそこに42日間いると、法律が定める限度に達する。
10マイクロシーベルト/時なら、1000 ÷(10マイクロシーベルト × 24時間)=4日。つまり同じ放射線量のなかで4日間いると、法律が定める限度になる。
20マイクロシーベルト/時なら、1000 ÷(20マイクロシーベルト × 24時間)=2日。つまりそこに2日間いると、法律の定める限度に達する。
実際には時間とともに変動するので、正確には1時間ごとの数値を足していくのだけれど、ここではざくっと把握すればいいので、朝と夜で変わったら、そのまんなかあたりで計算。
これは数値が上がったときで、平常値なら、1000に行くことはないです。350くらい。
(別の単位もあって、マイクログレイ/時=マイクロシーベルト/時で計算)
15日に東京で出た0.4マイクロシーベルト/時というのは、平常が0.03〜0.04だから約20倍で、たしかに異常だけど、1000に達するのは104日間それがつづいたときで、今回は1日で風向きがかわって太平洋沖に流れていった。
呼吸などでとりこんだ内部被ばくのことをいう人もいるけど、このレベルでは考えてもしょうがないと思う。内部被ばくは、いまは原発周辺の人たちが問題で、東京では食品の汚染が出たとき。
人に勧める気はないけど、私の個人的な目安は東京で1マイクロシーベルト/時が出たときと、5〜10マイクロシーベルト/時が続くとき。
被ばくはしない方がいいに決まっているし、公衆の被曝線量限度というのも引き下げた方がいいと私は思っているので、人にこうしたらいいと勧める気はないです。上のことはあくまで目安としてあげたと受けとめてください。あとは自分で計算して、私は法律の半分とか、特に子供や赤ん坊は最低限に抑えようとか、自分で判断することです。
◎まずは周辺住民を避難させるべき
問題は東京ではなく、周辺の人たちだ。
この間、福島県では3月15日から南相馬市(30キロ圏内)で20マイクロシーベルト/時、福島市で23マイクロシーベルト/時といった数字が明らかになって、それは多少減りつつも、17日現在もつづいている。
先ほど、17日23時すぎのNHKでは、各地の測定値が地図上で示され、福島は12.3マイクロシーベルト/時と出ていて、このときに解説者は「福島市にしても、だいぶ高いけど問題はない」などと言っていた。ほんとにひどいと思う。
福島市ではもう2日続いているわけで、明日には累積で法律が決める1000マイクロシーベルトに達してしまう。
私はまずなによりも屋内待避中の30キロ圏の人々を避難させてほしい思う。すでに空気中にはヨウ素やセシウムも出ていると思えるので、内部に吸い込まない手立てをとって。
そして避難範囲を拡大し、1000マイクロシーベルトに達しそうなところから、順次避難させてほしい。
法律が1000マイクロシーベルトと決めているのだから、法的にも国が率先してやるべきことだ。
そして想像したくはないけど、「最悪の事態」のときのことを考えたら、近い人からともかく避難させるべきだ。
米国が80キロ圏の米国人に避難勧告をしたのは、だから根拠のないことではない。彼らなりのデータ分析を行った結果だと思う。まあ、帰るところがあるなら、無理にいる必要はないわけだし。
3月17日(木)
そして今日3月17日。昨夜は庄屋に明け方まで飲みに行ったこともあって、ぐっすり寝入って3時すぎになって起き出したのだけど、ともかく白煙だけは見えなくなっていた。(白煙があがるということは、放射能がそれといっしょに上空にあがり、広範囲にまき散らされるということ)
午前中に自衛隊のヘリコプターによる放水があって、夕方には警察の高圧放水車の放水、自衛隊の消防車の放水があるという。
そして事務所に出て、これを書き始めた。
今日驚いたというか、日本でもやってほしいと思ったのは、ドイルのシュピーゲル紙のサイト。
福島原発から出た放射能が、どのように拡散していたかをシュミレーションして、動画にしている。
記事(http://www.spiegel.de/wissenschaft/natur/0,1518,750988,00.html)の右側本文中の地図をクリック。
3月12日15:36(地図上では時差が8時間?あるようだ、ドイツ語わかる人は教えて)の1号機の爆発では、放射能は北へ宮城、岩手を通って東の太平洋に向かったが、14日11:01(地図で3:00)の3号機の爆発以後には風向きが南へと変わっていき、15日02:00(地図で18:00)ごろには東京に到達。これが東京で測定されたわけだ。そして静岡の浜岡原発あたりまで覆い、その後、風の向きが変わって、16日16:00(地図で08:00)には太平洋へ流れていった。17日14:00(地図で6:00)まで。
何を根拠にこれが出ているのか不明で、ドイツ語がわかる人は教えてほしい。
遠くのドイツで、限られた情報をもとにしてこれだけのことができるのに、なぜ日本ではできないのだろうか。遅れてでも公開されるなら役立つと思うのだが。
順次更新されているようで、いま見たら18日14:00(地図で06:00)まで出ていた。半日ぐらいでサイトに反映されている。
⇒放射能の拡散地図(http://www.spiegel.de/wissenschaft/natur/bild-750988-192309.html)
誰か日本の気象庁、気象学者でこれができる人はいないのだろうか。
17日未明の東電の記者会見で、送電線の設置を準備しているとの話あったという。すべては非常電源が使えなかったことに始まるんだから、電源を復活させるのは最優先課題のひとつ。とっくに始めていたんじゃなかったのか。腹の立つ。
放水は始まったが、3号、4号の核燃料プールはいまだおさまっていない。(3月17日)
荒川俊児(2011年3月26日)
●「そうだ、チャイ屋をやろう」
映像ドキュメントのみなさん、こんにちは。おおくにです。今の気持ち、書いてみました。わたしのブログからの転載です。こんな形での投稿しかできず、すみません。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
「そうだ、チャイ屋をやろう」
私が所属しているあるメーリスで、今のこのときの気持ちを綴ってほしいという呼びかけがある。
地震、津波、多くの死者と行方不明者、そして原発。いまも収まらない放射能禍。
それらについて、今思っていること、なんでもいいから、投稿して、ドキュメントとして残しておこうという試みだ。
その試み自体には賛成だし、とても意味のあることだと思っている。
ひとつひとつの声がとても重いことに気付く。
けれど、書きあぐねてしまっている自分がいる。
こんなときを予想していたわけではないけれど、被爆、あるいは被曝ということに関して、自分の立ち位置を決めておこうと、PTAの会で、講演会や上映会をオーガナイズしてきたのではなかったか。
そんな中で、劣化ウラン弾で被曝し、そして短い命を終えていくイラク周辺の子どもたちのことを知った。
広島の爆心地から1キロ余りの場所にあったピアノがどんなふうに当時のことを伝えるのか――学校で子どもたちに向けて演奏された“被爆ピアノ”は、満身創痍で訴えていた。
さらにプルトニウムの危険性。世界でそれがどのように位置づけられているかということ。安全神話の向こうにあるさまざまな可能性について。
確かにいろいろな情報があった。
だが、しかし。
今思うこと。それは、あまりに無力であったということだ。
けれど、命ある限り人は生きようとする。それは、生きとし生きるものがそのDNAの中に持っているもの。
今はそれを信じているというべきか。
朝起きたら、きのうの肩こりが治っていて、ふと、思った。
「そうだ、チャイ屋をやろう」
インドのチャイ屋で、チャイは1杯3〜5ルピーくらい。
甘くてとろっとしたチャイは、グラスにひと口注がれる。
フェスの開催はなんだかやたら忙しいから、チャイの存在はとても助かった。
みんなで飲めば、たちまち楽しいおしゃべりの時間になる。
こっそりふたりくらいで持ち場を離れ、連れ立ってチャイ屋へ行けば、それまた幸せな気持ちになれる。
そうそう、そうだった。
チャイ屋をやろう。
どこで、どんなふうにやるのかは、まだ決めていないけど。
それが今の気持ち。
おおくにあきこ(2011年3月25日)
●「人災」ということの意味、メディアの洪水、危惧すること
こんにちは。幽霊のようにメーリングリストに入っている暉峻です。
今回の原発事故では、いろいろなことを考えさせられています。いろいろなことを考えさせられていること自体、30キロ圏内にいる人たちに比べて、以下に自分が切羽詰っていないかということにもなるかもしれません。現在は、いろいろなことが頭の中を錯綜している状態ですので、錯綜したまま箇条書きで、今頭の中にあることを、箇条書き風に並べてみたいと思います。
1)地震津波は天災だが、原発災害は人災である、という認識は広くシェアされている認識だと思います。その上で、「人災」という意味を考えてみました。
近いうちに、政府と東電は、責任のなすり合いの泥仕合を演じることになりそうな印象を、大手メディアを見る限り僕は持っています。
しかし、事は、電気という生活に必需のインフラに関することです。「人災」のステークホルダーはもっと幅が広いのではないかと思います。
電気を生産する東電、国のエネルギー政策を決め、原発にゴーサインを出してきた、歴代の政権はもちろんですが、200キロ以上にわたる送電距離を経た電力を享受してきた電力消費者もまた、ステークホルダーの大きな一部だと思います。
僕は、東京で生まれ東京で育ってきました。このような事故が起こってみて考えたことは、成人したあとの自分は、どんな市民だったのだろう、ということです。
民主主義という仕組みの中では、市民の統治に対する監視・干渉は健全な統治を保つためには不可欠なのだと思います。統治機構は、「批判者が一番の親友である」という立ち位置を確立することが基本であるのと同時に、市民の側は、統治を常に見て、声を上げ、干渉してゆく統治へのオーナーシップが、統治が健康であるためには不可欠なのだと思います。
それを自分は、やってきたのだろうか、と考えると、原発推進派に1票を投じたことはないものの、それほどの統治へのオーナーシップは持っていなかった。
その意味では、僕も今回の事故では、暴力をふるう側の一員でもあるのです。
では、僕は、どんな暴力に加担していたのか。
原発を受け入れる地域は、第1次産業に頼る経済的な基盤の弱い地域が多いのではないでしょうか。
都民である僕は、農産物の価格変動のしわ寄せが生産者に真っ先に行く構造の中で、それを日常生活で、目にすることなく暮らしてきました。被爆の程度が大きな地域は東京への、食糧を供給する地域でもあります。日々の食生活の中での、消費者として、暴力行為に加担していたのかもしれません。
そして、普段使う電気がどうやって発電されているかは、知ってはいても、その電気を享受する生活をしています。経済的基盤のもろさに加担し、そのもろさ故のリスクの高い原子力発電を受け入れた地域の電気を消費していたことになります。
2)地震発生から、暫くは、どこのメディアも、地震津波の被災者情報と原発の情報のみを流していました。24時間、他の情報はテレビから流れてきませんでした。
僕は、ひたすら、被災状況と原発の映像ばかりを目にしていると、ある意味頭の中がメディアに支配されているような感覚に陥ります。
僕は、先日両親をとりあえず、西日本に、一時疎開させたのですが、西日本のテレビで、普通のバラエティを見たときに、何故だかほっとした気持ちになり、そのときに、あたまがメディアに支配されているような感覚に気が付きました。気が付いたのか、そう思っただけなのかは解りませんが・・・・。
これに関連して、僕が危惧しているのは2点です。
被災してしばらくしてから、テレビが、被災者の助け合い、がんばりや、支援者の英雄的な行動を伝える事が多くなってきた気がしています。原発事故も、現場で「市民を守るため、放射能と戦う職員・消防隊員・自衛隊員」という構図をメディアで目にすることが多くなってきた気がしています。
一つ目の危惧は、これらの、献身的で英雄的な行為により、原発が最悪の事態を脱した場合に、世論の心理として「よくやった。よかったよかった」で問題意識が収束してしまうことです。
もう一つは、ここ数日東京のテレビも、普段の番組編成が徐々に復活してきています。番組編成が、NHKも含めて、普段通りになったときに、これまた人の心理として、「普段に戻った」ということになり、被災者のことも、放射能のことも忘れ去られていくことです。
3)何ができるのか、については、僕は自分自身が、旧ユーゴの民族和解の活動を主にしているNGOで働いていることもあり、超零細NPOとして何ができるのか、という視点で考えてきました。
今回の自然災害・人災の被災はいうまでもなく深刻です。経済的にも、電力供給が回復するのには、長い期間が必要であることを考えると、復興の過程でこれまでの東京一極集中だった企業社会も、西日本に少しはシフトしていくのではないかと考えられます。それに伴い東日本から西日本への人口の移動も起きるでしょう。
放射能汚染のひどい地域に関しては、住民の避難先の次には、移住先を考えなければ行けない時期がやってきます。ぼんやりですが、移住を考えている被災者と、移住先となる地域の橋渡しができないものかと考えています。
映像との接点から考えると、特につながりが無い地域への移住を考える人がまず、不安になるのは、そこに移ってやっていけるのか、ということだと思います。
移住を考えざるを得ない人たちに、生活環境を想像しやすい映像を提供できれば、プラスにはなる気がしますが、桜井さんの考えているようなこととはかなりかけ離れていることかも知れません。
もう一つ、映像がらみで思っていることがあります。とんちんかんかもしれないですが・・・。
今回の原発事故により、国は、というよりも、電力を生活に必要不可欠としている僕のような市民は、電力政策・戦略を考え直す必要が有るし、義務もあるのだと思います。
僕自身は、集約型の電力生産を考えるから、でかい設備で大量にという発想になり、ひいては原子力のようなもてあそべないものをもてあそぶことになるわけで、都市機能の全国への分散化(個人的には、首都というものがIT化されたこれからの時代必要なのか疑問に思ってもいます)とともに、電力も地産地消を可能な限り目指すべきなのではないかと思っています。
僕は、理科・算数という文字を見ると、未だに意味なく仮病を使いたくなるような人間なので、技術的なことはよくわかりませんが、送電する距離が長いということは電力をロスしている比率も高いわけで、短い距離を、風力、太陽熱、地熱、空気中の放電を利用、小水力発電等で送電し、産業用の電力のみを火力という方式をとれば原発等なくともやっていけるのではないかと勝手に思ったりしています。
が、これは理科音痴の僕の思いにすぎないので、専門家も交えて、統治に対して提案していけるだけの案を映像という形で出せれば、同じ過ちを犯さない一助にはなるかもしれません。
ドキュメントという趣旨からは外れるかも知れませんし、いま頭の中を錯綜しているままに書いたので、訳が解らない文章になってしまいましたが、これが、現在僕の思っていることです。
(特活)国際市民ネットワーク 暉峻僚三 2011年3月25日
●桜井 均
あえて長いレンジのことを書きます。
以前、ビキニ環礁の核実験場に行ったとき、そこで偶然会った米科学者から著書をもらいました。そのタイトルは『隠れるところなし』(No
Place to Hide)、いまの私たちの状態、心境とぴったりです。テレビが物に憑かれたように終日放送していますが、おそらくこうした心理状態なのでしょう。安心情報は視聴者のためというより、自分たちのなのです。
これはメディアが臨界に達しているということです。その証拠に、緊急報道体制にがんじがらめになって、まともな評論家を出そうとしません。問答無用の状態です。
こういうときにこそ、私たちは自分の判断で、今いる場所から「原発はいらない」と声をあげなければならないと思います。東京がいかに東北に依存しながら、収奪をし続けてきたかを考えなければなりません。
もう一つロングレンジな話をします。カミュの『ペスト』の最後の部分。ペストの大流行が収まったとき、人々は町に出て喜び合いました。そのとき、不眠不休でペストと闘った医師リウはこうつぶやきます、
「おそらくはいつか、人間に不幸とともに教訓をもたらすために、ペストがふたたび鼠どもを呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを差し向ける日が来るであろう」。
喉もとすぎればではなくて、原発に反対する人たちが自分たちで撮った映像を集めてリンクをはるなどして、私たちの映像ドキュメントの仕事につなげていく必要があると思います。
桜井 均(2011年3月22日)
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